あまりに放ったらかしのこのブログ…

なんと今年はじめの投稿…なのに、もう五月!!

廃墟と化したこの日記、それでもたまに覗いてくれる実に奇特な方々、

いかがお過ごしでしょうか??

わたしは変わらず元気に楽しくやっております。

三月から「ナレーションとイラストレーション」なる、端的にいうと

絵本なりバンドデシネなり、本を媒体とした絵+物語制作のための講座に通い始めました。

この講座は出版社へどう自分の企画を持ち込むか…等を考えていくというもので、

友人マリアから是非にと勧められたもの。

毎週土曜、楽しく通っています。

講座開始の少し前に、ようやく自分で納得のいく文章が書け、絵をつけはじめ…

そのタイミングで講座申し込みの願書―つまりは自分がどんな作品をつくる予定なのかを

まとめて提出しなければならず、そこで具体的に方向性が見えてきました。

この一年、バンドデシネに取り組んできたけれど、

自分が本当にやりたいのはバンドデシネより、むしろ文章+絵だということ。

というわけで、今はショートショート+絵という制作スタイルに移行しています。

日本語でも物語など書いたことなかったのにましてやフランス語で…我ながら中々大胆です(笑)

ここに至るまでにはまず、久々にフランス語講座を受講したことも大きく。

作文の宿題を毎回とても褒めてもらったことで少し自信がつき、

その流れでずっと行ってみたかった、近所の図書館で開催されるライティング・イベントに

挑戦したのが去年の冬。

それが中々に楽しいイベントで、箱の中から偶然に引いた紙切れに書かれたことばを使い、

短い詩を書いてみようという内容。

日本語でも詩など書いたことないのに、ましてやフランス語で書けるはずがなく、

わたしは短いお話を書きました。

ありがたいことに進行役の詩人の女性、他の参加者にも好評をいただき、

その日、夕方に開催された図書館の公開イベントでそのままそのお話を朗読することに…!

とても楽しい体験でした。

もちろん自分のフランス語のレベルではどうにも超えられないハンデがあります。

いや、ハンデ以前の問題です!

けれど、それはそれでいいじゃないか。

平坦なことばでも平坦なりになにかを語ることはできるはず…と、

視点を変え、開き直り!(笑)、今はお話を書いています。

といっても物語を紡ぐこと自体、新たな体験なので

そうそう簡単には書けないのですが、それでもだいぶ慣れてきた気がします。

フランス語講座の宿題や、あるいはイラストレーション・ナレーション講座の

宿題にかこつけて、ここのところ定期的に短いお話を書く訓練をしています。

というわけで、今のわたしの目標は「食べることは、ふたたび愛すること」という、

イラスト短編集の制作です。

「食べること~」は最初に書いたカマキリのふたりのお話で、

このお話をメインに「食べること」をテーマにしたお話を三篇ほどつくる予定。

それらを合わせて一冊の本にしたい、というのが当面の目標です。

とはいえ、カマキリのお話も絵付けはまだまったく進んでおらず、

今は先に二つ目のお話を書いている最中です。


イラストレーション・ナレーション講座はとてもアットホームな雰囲気で、

わたしはなかでもノルウェー人の若きゲイ男子と仲良く、

思えば渡仏してから、なにかの機関に参加して、

そこで最初に仲良くなるのって、いつも年若き男子だなぁ…と、

彼らの母親であってもおかしくないはずの、我が精神年齢を疑いつつ(笑)、

今は充足した日々を過ごしています。

そうそう、今年は晴れて50歳になるので!、

だからというわけじゃないけれど、もう好きにやっちゃえ!という気分もあり。

そんなわけで開き直ってコツコツ制作しています。

いのち短し、恋せよ中年!

ささやかな毎日に恋するように過ごしていけたら…と願う日々です。

それでは、また…!!



つい先日のこと、雨のしたたる音で目が覚めた。

目覚め際、一瞬、日本の雨を思い出した。

日本の雨? 雨にフランスも日本も違いなんてある…?

布団に包まったまま自問して気がついた。

日本の雨って、こっちの雨よりずっと存在感が強い気がする…

瞼の裏に記憶の中のあまたの雨が再生される。

幼い頃の梅雨。

降っても降っても降り止まない、

透明な線を何千本、何万本と定規で引いたような、あの雨。

アスファルトを叩きつける雨粒の、時に暴力的とさえいえる轟音。

足元に生まれては消えていく、水しぶきの王冠。

水の匂い。

冷たく重く湿った服。

靴の中でくちゅくちゅと音を立てる雨水。

帰りつく頃にはきっと、靴下は絞れるくらいに濡れていて、

足の指はお風呂上りみたいにふやけているだろう…。

幼い日の梅雨時、文字通り、世界はすっぽり雨に包まれていて、

もはや差す意味のない傘を不器用に意固地に差し続けるわたしの手は木の葉のようにちいさかった。


「あの梅雨はいったいどこにいったんだろう…?」

大人になってからの梅雨は幼少期の記憶のそれよりずっと慎ましやかになっていて、

わたしはたびたびそう自問した。

温暖化による気候変動?

ううん、幼かったから、より一層圧倒されていたのかも…それも一理あるだろう。

とはいえ、大人になってからの日本の雨も、パリのそれよりやはりずっと印象が強い。

オフィスの窓から、あるいは通勤途中の車窓から眺める薄墨色の街。

細やかな霧雨。ばらばらと傘を叩く大粒の雨。五月雨、秋雨。やらずの雨に涙雨。

森羅万象に畏敬の念を抱く日本人の感性が

現代を生きるわたしたちのDNAにも少なからず残っているせいなのか、

日本の雨はその時々で表情を変えながらも、

こちらの雨よりずっと強くその存在を感じさせる。

まるで雨それ自体がひとつの生きものみたいに…。

それに比べると、こちらの雨は飼いならされたそれだ。

人間社会に空を間借りして降る雨だ。

途端に日本の雨が恋しくなる。

ううん、もっと正確にいうと、

雨に降られているうちにやがて訪れる、あの平穏が恋しいのだ。

一向に止まない雨にとうとう自分も時間も明け渡したときの、

あの不思議な清々しさが恋しい。


後日、日本人の友達にその話をしたら、

「こっちは中々長雨にならないからじゃない?降っては止みの繰り返しでしょ?」

そうかもしれない…

ローランもまた

「それはたぶん、フランスではなくて〈パリの雨〉だからだよ。

 たとえば南仏の雨はパリの雨より時にずっと激しいよ」

ああ、そうね。

ついこの間も北部で水害があったんだった…

わたしの雨に関する推察はこうして呆気なく覆された。たぶん。


水害は恐ろしい。

そうでなくても雨が続けば文句も垂れる。

それでも用事のない日に窓の向こうの雨を眺めていると、なぜか心休まる。

雨に洗われた街や中庭の草木はいつにも増して瑞々しく、目に美しい。

眺めているこちらの瞳まで洗われるようだ。

雨音をBGMにゆっくりコーヒーを飲む。

今、自分は守られていて安全なんだ…

安堵に包まれながら、同時に身を寄せる家のない人々を思う。











パリ市主催のフランス語講座に登録した。

講座に通ってのフランス語学習なんて、2017年に渡仏した時以来!!

まあ、毎日が勉強だし!といえればいいのだが…

いかんせん怠け者のわたしのこと、

知らない単語を引いてふんふんと納得しても、その場で忘れてしまうことしきり!

学習と呼べるような行為からは長く遠ざかっていた。


ところで、このパリ市主催の語学講座、

実はこれまでにも何回か申し込んではいるのだけれど、

いかんせん受講希望者が多く、毎回抽選に落ちていた。

そこで今回は申し込み願書の備考欄にも

「今度こそ、こちらの講座で学べることを強く期待します!!」と、その旨しっかり記載。

一念が通じたのか否かは不明だけれど、晴れて受講と相成った。


初日の昨日はレベル確認のための簡単な小テスト。

テストは三ページで、いずれも課題に沿って作文を書け、というもの。

①旅行サイトに載せる体で、あなたの記憶に残る旅について書け

②友人にアパルトマンを貸したところ、帰宅してみるとひどいありさま。

 部屋は散らかり、おまけにTVや洗濯機も故障。抗議の手紙を書け

③最近あなたの暮らす地域の治安が悪化。地域見守りの会に参加することに…

 会を代表して市長宛に早急な対応を希望するメールを書け


③に取り掛かったところで徐々にわたしの悪い癖、悪ふざけが出てしまう。

地域の現状を訴え、自分たちも手を尽くしたことを簡潔に説明し、

あとはもう行政の手を借りるほかないと断言。

ついてはまず自分たちの会に参加して一緒に現状確認をしてほしい、

毎週月曜ならいつでも受け入れ可能…云々

ここまで書いたところで、ニヤリとペンをあらたに握りしめる。


『 あなた様に連絡させていただくのは、これが二回目です。

  もし今回、一週間以内に何らかの回答がいただけない場合、

  ことの経緯をジャーナリストに報告する心づもりがありますことをお忘れなく…

  迅速な対応に前もってお礼申し上げます。

  敬具 』


帰宅してローランにいうと、

「それは依頼ではなく、脅迫だ!!」

「だってその方が面白いじゃない」

とまあ、わたしの駄文はいいとして、その後の面接の質問が面白かった。

ひとり5分程度の面接は最初にまず生徒の国籍を確認し、

母国でどんな仕事をしていたか、いつ来仏したかなどのやり取り。

ついで「あなたが母国に望むのは?」と、いきなり会話は飛躍する。

「え?わたしが日本に望むこと?」

「そうそう、日本の未来に望むこと」

ゆったり語り合うならいくらでも、それこそ際限なくあれもこれもと挙げられるけれど…

「大地震、大災害が起こらないで欲しいというのがまずひとつ」

「あ、そうだねぇ…」

「それから社会保障の充実ですね、特に子供と老人のための」

「え? 日本は社会保障が不足してるの?」

「もちろん基本的な社会保障はあります。

 ただ、これはわたし個人の印象ですが…フランスのように簡単には受給できない」

「確かにここでは保証を受けるのは難しいことじゃない」

「そうですよね? 

 さらに日本では助けを求めることを許さない、良しとしない、

 自己責任というメンタリティが社会の根底にある気がします」


と、ここでタイムオーバー。

まあ、この話題に関しては簡単に援助を得られるせいで、

制度を悪用する者が出て来る…という、本末転倒な現象ももちろんあるのだけれど。

それでもその悪循環を踏まえた上で、わたし個人はやっぱり

『困った状況にある人が臆することなく助けを求められる社会』

『助けを求めた手をしっかり握り返してくれる社会』の方を選ぶ。

とはいえ、これはあくまでもイメージだ。

フランスにだって、かき消され、聞こえないことにされている声は挙げればきりがないだろうし、

日本にだって、より広く公正に速やかに支援の手を行き届かせようと日々奮闘している人々がいる。

都合3分で終わらせるには大きすぎるテーマではあるのは間違いないけれど、いい質問だと思った。

多国籍が集まる講座だもの、回答もバリエーションに富んでいるに違いない。

いながらにして世界の事情を聞きかじれるのだから、

わたしも他生徒の回答を聞いてみたかったなぁ…!

というわけで、しばらくの間、週に一回フランス語講座に通うこととなりました。





昨夜は二週間ぶりのアトリエ

子供のいないわたしは常日頃、すっかり忘れているものの、

こちらの学校は本当にバカンスが多い

アトリエのカレンダーもまた学校に合わせてあるから、

なんだかんだでちょくちょく短い休暇が入る


最後はただ「一度はじめたものを終わらせる」という目的のため、

やけになって描き上げた課題

「三面記事をふたつ選び、それらふたつが交差する物語をつくること」

という課題をもらったときには、面白そう!とやる気に火がついたものの、

シナリオの段階から、なんとなく気が進まず…

絵に入ってからもなんだか無理に物語をひねり出している気がして消耗

「物語」の創作はわたしには向いていないのでは…と、ふつふつと疑問が。

かといっていわゆるエッセイマンガ的なものは自分にはまったく向いていないと思うし、

じゃあ、いったい何を描けば…?

ふと、気晴らしに短編小説に絵をつけてみたらどうだろう?

そう考えて目に留まったのがR・カーヴァ―だった。

夕方アトリエに通い、先生に作品を見せる。

「悪くない。絵は良いし、あとは物語の構成をもっといじってもいいんじゃないかな」

そこで、打ち明けた。

「これまで見せた作品を踏まえたうえで、どんなジャンルがわたしに向いていると思う?

 なにを描いたらいいのか、すっかりわからなくなって…」

「そうだな…一度、短編小説をバンデシネにしてみたら?」

「え!今朝、そう思ってたところ…ちなみにどんなジャンルの?」

「チャンドラーとか。アメリカには非常に乾いた文体があるだろ、ああいうの」

「うそ!まさにR・カーヴァ―なんてどうだろうと思ってたの」

「君の絵にはすでに詩情があるから、物語自体が詩的じゃはない方が僕はいいと思う。

 乾いた、淡々とした小品の中に君ならではの詩情を醸し出す方がうまく行くと思うよ」

「絵と物語の間に距離を置くんだ。ふたつが多少相反する方がきっと君の絵が効果的に映える」

目から鱗だった。

非常に納得した。

詩情、エモーショナル、雰囲気…は自分でも意識するところだし、それらが念頭にあるからこそ、

どちらかといえばその手の物語を手掛けるべきだ…と無意識理に思っていた

けれどここ数年、わたしが好んで読んでいるのはまさにアメリカの短編、

時に素っ気ないほど飾り気のない、巧妙に無駄のそぎ落とされた文体だった…

けれども、それらふたつを結び付けようとは考えてもみなかった!

わたしとしたことが…!!(笑)

四コマを描いていた時は短歌、俳句の考え方

(絵もことばも饒舌になりすぎず、的確に摘み取ること)を念頭に置くようにしていたが、

バンドデシネを始めてからは、すっかり道に迷った感があり…

自分にしっくりくる作風を得るには当然それなりの時間と経験がかかるものだとしても、

それでも昨日もらったアドバイスにはこくんと素直に頷かざるを得なかった


とういわけで、朝から久しぶりにR・カーヴァ―の短編を読んでいる。

どれに絵をつけるかはすでに心づもりがあったので、あとはどう料理するかを考えるのみ

ちなみに今回は紙の下地の色を変えてみた

今までは珈琲で彩色した紙に鉛筆で描いていたが、今回は黄色い下地にしてみようと思う

紙を切ったり、塗ったりしながら、急いた心でふと思う

この短編小説のコミカライズをいくつかクリアし、手ごたえを得たら、

そのうち、過去にまとめていた自分の日記をバンドデシネにできるかもしれない

物語ではなくて、現実から切り取ったごく短い逸話…どうだろう?

無名のひとびとの、特にどうということのない、ちょっとした瞬間

心なしかうきうきしている





年が明けてから、晴れて無職となった

時間だけはたっぷりあるから、作画に専念しているのだけれど…

毎日きちんきちんと机に向かっているからといって、

必ずしも満足がいく絵が仕上がるとは限らない


秋から通い始めたアトリエでは、多少のうぬぼれを差し引いても、

おそらくわたしは「描ける女」ということになっていて、

今までひとりコツコツと描いてきたわたしにはそれだけで充分な励みだ

わたし以外、みな多様なバンドデシネ作品に通じていて、

そういう仲間が好意的に自分の絵に驚いてくれるのは素直にうれしい

今はそこからどうやって這い出すか、が次の課題


「自分らしい」というのをフランス語で「自分に似ている」と表現する

この表現は若手シェフが腕を競い合うTV番組で聞き知った

番組内で求められるのは単に「美味しい」だけじゃない、

新鮮な驚きをもたらす食材の組み合わせや、

お皿の上の斬新なデザイン、粋な演出…

美味しいのは当たり前で、いかにその先を目指すか、が命題なのだ

その中で若いシェフたちが時おり満足げにつぶやく、

「自分に似た一品がつくれたと思う…」


描きかけの作品を見ながら思う

アトリエに持っていけば、きっと悪くはない評価がもらえるだろう…

全体的にそこそこきれいに仕上がってるし、与えられたテーマを踏襲しつつ、

そこから少し飛躍もして、課題作品としてはおそらく充分

だけど…「わたしに似ている」のか?


バンドデシネを意識し始めてから

つまり、かよみさんの追悼マンガを描いてから―

鉛筆がメインの画材に返り咲いた

もともと高校時代、濃いめのデッサン鉛筆で描いていて、

モノクロが好きなのはその頃から変わらない

当時はほんの少しエッチングにも挑戦した

版画インクのあの独特の深みある黒には今でも嫉妬している

けれど、面倒くさがりのわたしにはいかんせん、

プレス機などの道具とそれを置ける場所の確保が必要なこと、

もしくは彫って刷っての手順がまどろっこしいのである

まあ、それあってこそのあの画面なのだけれど…!


神戸時代はもっぱらペン

版画のような深みある黒は無理でも、

パキンと無機質な黒と白で構成するのも面白く、

だからかよみさんの漫画を描こうと決めた時も最初はペンでスケッチした、が…

彼女のふわりひょうひょうとした雰囲気を再現するのにペンじゃあ無理、

それなら…と久しぶりに握った鉛筆

ペンと違ってやわらかな「ぼかし」が効くし、

古い友達に再会したようなよろこびがあって、ふたたび鉛筆時代の到来


で、「わたしに似た」作品って…?

「ちょっぴり毒があって、エロティック」

わたしをよく知る友人たちなら、たぶんほとんどがそう評するんじゃないだろか

ところが…

アトリエのエクササイズで描いたペン画以外、

ここ最近のどれ(ストーリーもの)を振り返っても

「毒」はおろか、「エロティシズム」の「エ」の字すら登場していない…

描きながら、多少のジレンマを感じるのはたぶんそのせいだ

バンドデシネという形態を取るようになってから、

(わたしなりに)優等生的な作品づくりをしている気がして、

いまだ、かすかに居残っているわたしの中の不良娘が不服気なのだ…

もちろん人は日々経験を重ねるし、経験は確実に嗜好にも影響する

作るものだって徐々に変化してゆく

過去の自分の焼き増しをしたいとは思わないし、

日々退化していくリビドーに従って絵からエロティシズムが、

あるいはささやかな反抗精神が薄れてゆくのもまた当然のことなのかもしれない


それでも不思議なのが、鉛筆をペンに握り替えた途端、

わずかに残っている「尖り」が表に現れるような気がするのだ

鉛筆だとこうはならない

「ね、ローラン。鉛筆とペン画、どっちがいいと思う?」

「どっちも好きだけど、どちらか選べというなら鉛筆」

「鉛筆の方が作画としてオリジナリティがあると思う」

そういわれてうれしいような、さびしいような…

他の友人たちに同じ質問を投げると

「どちらともえいない」

鉛筆で描こうとするとき、わたしはとかく丁寧になる

鉛筆の黒は何回も塗り重ねないと深みを増さないから、

少しずつ少しずつ丁寧に描く

だけど鉛筆という「媒体」のせいだけじゃないだろう…

鉛筆でだってもっと面白い、きれいなだけじゃない画面は作れるはず…

さらにいえば絵だけの問題じゃないのだ

今はまだバンドデシネという形態に則ってなにかをつくろうというのがやっとで、

「自分に似た」作品をつくるレベルまで到達していない…

それでも一度乗り込んだバンドデシネという舟の上、

なんとか「今の自分に似た」物語を発露したく、毎日鉛筆を握る






確信犯みたいにふたり顔を見合わせ、抜け出した映画のイベント。

スーツ姿のサラリーマンに混じり、笑い転げてあおった盃。


神戸時代を振り返るとき、そこにはある種の儚さを孕んだ

きらめくような瞬間がそこかしこに散りばめられていて、

思い出すたび、胸は今も少しだけ切なくなる。

ローランとの暮らしは相変わらず幸せ、平和そのもので、

わたしは毎日自分の幸運に感謝しているが、

特別な女友達と紡ぐ、あの輝くような瞬間だけはやっぱり別もの…

ううん、いい友人、好きな人間にならパリでもとうに恵まれている。

もともと数を望まないわたしには充分なくらいに。

けれど…

あの輝かしい瞬間は、そう簡単には起こらない。

つきあいの長さ、深さだけでは測れない、

あのきらめきは一種の化学反応みたいなものだから。

共鳴し合う気質、どこか似通った感性、

そうして同じ程度の幼児性とでもいえばいいのか、

同じレベルの精神の若さ、未熟さがあって、ようやく起こり得る稀な現象なんだもの…


そう願い焦がれていたわたしはついに、パリの街でその「きらめき」を集めはじめた。

お相手は同じバンドデシネのアトリエに通うイタリア人のマリア。

初日の自己紹介で好きな作家を上げるよういわれ、

マンガもバンドデシネもほぼ知らないけれど、と前置きをして、

つげ義春が好きです、と告げると

「僕も好き」うなずく先生と同時に、

教室の奥、勢いよく「わたしも!」と手を挙げた、その人だ。

なんなら、授業開始前、携帯片手に歩いてきた彼女が

最初に視界に飛び込んできたときの光景だって、わたしははっきりと記憶している。

出会い頭の映像が自動的に記憶にインプットされる相手というのは、

わたしの場合、のちになにかしらの縁ができる人なのだ。

そうして不思議なことに、この現象は相手が女性の場合のみ起こる。


最初の数週間は特に会話を交わすこともなく過ぎた。

机だっていつも離れていたし、

この人と話してみたいというもやもやした感情を

わたしは思春期の少女みたいにじれったい恥じらいと共に持て余していた。

いずれ訪れるだろう機会をそっとうかがいながら。

そうしてひと月が過ぎた頃、授業終わりにようやくわたしたちは正式にことばを交わした。

コートを羽織り、外に出るとお迎えのローランが待っていた。

聞けばマリアもわたしと同じ区に住んでいるという。

そのまま三人で歩いて帰った。

次の週、

「たぶんマリアと帰るから、お迎えはいらないよ」

ローランにそう告げて、家を出た。


本来なら30分の道のりをわたしたちは1時間かけて歩いて帰る。

毎回おしゃべりに夢中になり、道に迷うからだ。

相手との距離の縮め方を慎重に測りながら、何回目かに思い切ってたずねてみた。

「ね、ストリートアートに興味ある? いつかさ、一緒に自分たちの絵を貼ってみない?」

瞬間、マリアはぴたりと立ち止まり、

眼鏡の奥にたくさんのお星さまを浮かべて、こういった。

「それ、ずっとわたしの夢だったの…」

2週間後、今度はマリアがこう切り出した。

「ね、ミオ。いつかさ、わたしたちふたりでバンドデシネのアトリエをやってみない…?」

「え? わたしたちが講師でってこと?」

「そう…!」

マリアの目にまた無数の星がきらめく。


マリアは無邪気な自由人だ。

わたしのアドバイスには子羊みたいに素直に従うくせに、先生には食ってかかる。

「この登場人物ふたり、似すぎてて見分けがつかないよ」

「わたしの絵に登場する男はみんな禿げてるの!!」

「禿げてるのはいいとしても、顔だって似てるじゃないか」

「ちょっとよく見てよ!こっちの鼻はとがってるけど、こっちは丸い、そうでしょ?!」

それでも陽気な性格がみんなに愛されている。


パリの冬はつめたい。

きりりと冷えた夜気に白い息を吐きながら、わたしたちは出鱈目に右へ左へと路地を横切る。

星はようやくそれとわかるくらい、ちいさくまばらで、

それなのにわたしにはとてもとてもきらめいて見える。

いつのまにかわたしは、このふたりの帰り道を心待ちにするようになっていた。

「あ、そうだ! いつかこの話、わたしたちふたりの話をバンデシネに描けばいいんだよ!」

「もう若くはない、イタリア人と日本人女性がふたり、

 いろんな話をしながら夜のパリを歩く話…!」

ある夜の帰り道、勢い込んで、けれどふざけならわたしがいうと、

マリアは再びぴたりと歩みを止め、しみじみとこういった。

「その話を描けるのはわたしじゃない。ミオだよ」

「いつかミオがこの話を描いてくれたら…わたし、すごくすごく感動すると思う…」

突然、自分が今、かけがえのない瞬間、

紛れもなく人生のうつくしいひとコマの、そのただなかにいることに気づく。

宣言するようにゆっくり静かに、わたしは白い息を吐く。

「…うん。わたしが描く。わたしたちのこの夜の散歩の話を。

 だけどそれはすぐじゃない。もっと何年も先の話。

 もっと一緒にいろんなことを分かち合ったその先に、

 いつかわたし、この話をきっと描く」

「うん…」

マリアの頭上で砂糖粒みたいな星がきらきらと瞬いてる。

久しぶりの友人夫婦と近所で飲む。

近所に暮らす友人というのは互いに帰りの心配などしなくてよいから気が楽。

とはいえ、もともと遠くに呑みにいくことはほとんどなくて、

どちらかというと我が家に誰かが遊びに来る、のが定番ではあるのだけれど。

すっかりバカンスモードのパリ、

この夜、お目当てだったバーの前で待ち合わせると、すでに夏季休業中。

かわりに夏の間だけ出現する〈空地バー〉でピザをつまみながら呑んだ。

草むらの間にテーブルとイス、パラソルや長椅子が置かれ、

屋台で飲み物や簡単なおつまみが購入できる。

こういう怠い感じの好きだわぁ。

二軒目のハワイアンバーでは、それぞれ甘めのカクテルを一杯。

途中、喫煙タイムで友人とガロ談義。

「先日、日本文化センターでやってたガロ展行ってきたよ」

「え!?行きたかった~!!」

と、フランス人ながらEroguroをこよなく愛する友人。

いわく『Gekigaって単語にはどことなくメランコリックなイメージがある』らしい。

へえ、そうなのか…

漫画じみたものを描きだすようになってからも、

自分の描いているものと〈漫画〉という単語のあいだになんとなくの隔たりを感じていたから、

単純に「そうか〈劇画〉か…いいな」と納得した夜だった。


狭いながらも楽しい我が家 ♪ 

ルーティンながら心地よい暮らし…♪ 

自堕落な日々にちいさな変化を投入しようと、

秋からパリ市主催のバンドデシネ講座に週一で通うことにした。 

というわけで、日ごろ怠けてばかりのわたしも秋からは半ば強制的に描く機会が増える。

その前の手慣らしに…と、描き始めたのがこちら。

ストーリーも登場人物もなにひとつ絞らないままのスタート。

この次なにが起こるか…は、明日が来なきゃわからない。

あっという間に2月…と書いてから、さらに半年もの月日が過ぎ、今は8月。

2週間ほど前にはパリも40度近い暑さを記録した。

なんだか恒例になりつつあるな…

今年はなんとなく体調がすぐれず、途中とうとうコロナにも感染。

しかも滅多にない、ローラン不在時に。

40度の熱が3日間続き、ひとりうんうん唸ってようやく少し熱が引き始めた頃、ローランが帰宅。

薬局でふたりそろって検査したら、その場ですぐに陽性反応。

この時点ではローランは陰性、しかし数日後やはり陽性反応が出た。

さいわい、ローランに至っては鼻かぜ程度の軽症で済んだ。


一昨日は誕生日の〈おまけ〉サプライズで、セーヌ河畔へ。

当日までおまけの内容は知らされず、朝になって

「夕方から出かけるからね…今夜はお泊りです!」

〈おまけ〉はセーヌに浮かぶ水上プチホテルでの一泊だった。

夜、窓の向こうには光をちりばめたセーヌ

大型船が横を通れば、かすかに揺れる寝室

独身時代のわたしなら、きっと浮かれて寝付くことさえままならない夜だっただろうに…

日中の暑さとカクテルにやられ、早々に眠りについてしまったわたしは

やはり感性が鈍化してきているのか?

丸1日が過ぎて、今日は週に2日のローラン出勤日。

(その他の日は在宅勤務…!)

ひとりきりの家で今、わたしはこの日記を書いている。

書きながら、あらためて自分の感受性の劣化具合にぞっとしている。

ああ、独身時代のわたしよ、惰眠を貪るわたしにどうか揺さぶりをかけて…!!

あなたなら、あなたなら…あの夜のきらめき、

瞳に皮膚に、脳裏に…永遠に焼きつけておこう、きっとそう誓ったはず。

愛する人と水上に浮かぶ寝室から眺める水面、まるで映画のワンシーン

こんなにロマンティックな展開、想像できた?って

自分に与えられた幸運にくらくらしながら感謝したはず…

いや、粋なプレゼントについてだけじゃない。

なにがなくても、こうして日々平穏に仲良く暮らしていられること…

それだけですでにあの頃のわたしが喉から手が出るほど欲していた人生、そのものじゃないか。


久しぶりの日記があえなく反省録と打って変わったところで、ペンを握る。

〈愛するローランへ…〉

久しぶりに恋文を書く。






たとえば去年の秋、ドイツへの小旅行

その途上で読んだ本の話―

書きとめておきたいことなら、折々に、それなりにあったのだけれど…

「もう少し、寝かせてから」

書きあぐねているうちに

いつのまにやら年が明け、ひと月が過ぎていた


先日読んだ、ある記事によると…

〈ホームシック〉というのは故郷を離れ、

3ヶ月が過ぎたあたりでようやく本格的に作動するという

新たな環境に馴染むのに、だいたい1年

それでも5年の間、〈ホームシック〉は影のように異邦人たちをつけ回し、

ことあるごとに彼らの胸をちくちくと締め付ける

ところが6年目に入ると―

「いざ〈そ〉を聞きに行かん…!!」

停車場の人ごみの中に足しげく通っていた、あのいたいけな異邦人たちもー

とうとう〈現地の人間〉として認識新たに暮らし始めるらしい…


ローランや周りの人間にこの話をすると…

「いやいや、ミオ、最初っから違和感なく過ごしてたじゃん!」

「いえいえ、違和感なく馴染むのと、

 現地の人間として自らを認識しているのとは似て非なるものでしょ?」

ローランとの甘く自堕落なパリ生活もとうとう6年目突入!

「今年からわたし…知らず知らずのうちに〈現地の人間〉としてものを見、

 考察するようになるんか…」

キリのいい節目に読んだのも手伝って、なんだか妙に感慨深い…

どうなっていくんだろ、わたし

他人事のようにぼんやり思う


今年もどうぞ、よろしくお願いします

「明日なんだけど、友達も連れてきていいかな?」

わたし、ローラン、バルバラ、モロッコ人のオスマン。いつものメンバーに、さらにオスマンの友人ふたりが加わり、その日は賑やかな一日になった。ひとり遅れてやって来たザックはモロッコ系フランス人で二十歳そこそこ、秋晴れの空の下、白いシャツがまぶしい。先に食べ始めていたわたしたちの隣にザックが腰を下ろすと、すぐにウェイトレスが現れた。

「じゃあ、僕はコーラを」

「ええ、それから?」

「…以上で」

「コーラだけ? 何も食べないの? お腹すいてるでしょ?」

「遅い朝食をとってきたばかりだから。自分の胃だもん、腹が減ってるかどうかは僕がいちばん知ってるよ」

 ふたりのやり取りが可笑しくて、みな笑いだす。ウエイトレスがいたずらっぽくウィンクして立ち去る。

「パリの街ってストレスだらけだよ。レストランで何飲むかって聞かれるだろ? 無料のお冷で充分なのに、水をといえばさてミネラルウォーターか、はたまた炭酸水かと畳みかけてくる。怖気をなして、じゃあ、炭酸水…って思わず口走る子たちのなんと多いことか!」

 くるくる回る愛嬌のいい瞳と、リズミカルなザックの語り口にみな声を立てて笑う。

「そうだ、反消費主義コーチなんて職業はどうだろう? 消費者のみなさん、プレッシャーに負けてはいけません、ここは毅然と(無料の)お冷で!といい切りましょう、さあ胸を張って堂々と…!ってみなにコーチングするんだ」

 お腹を抱えて笑うわたしたちを横目に、医学生ザックが続ける。

「だけど、いったい誰が僕にコーチ料を払ってくれる? なにしろ、反消費主義なんだもの。顧客はみんな出し渋る。あ、そうか!最終的にレストラン業界がお金を積んでくれるに違いない。お願いですから、もうそんな活動やめてください、ってね」

 時おりわたしたちの隣を横切る件のウエイトレスもすっかりザックの調子に巻き込まれ、なにかと冗談を交わしていく。こんな人っているんだなぁ。ふらり現れたと思ったら、いきなりみなを笑わせ楽しくさせる。わたしとオスマンとの出会いを聞かれ、移民局の研修が縁だと告げると、

「ああ、初めての豚肉を食しましょう!ってあれ?」

 イスラム教徒ならではのジョークだ。

「僕の祖父母が移住してきた時にね、なぜフランスで暮らしたいのか、移民局で祖母が質問を受けたんだ。すっかり緊張したおばあちゃん、いったいなんて答えたと思う?」

「国旗が…フランス国旗が好きだから! 青、白、赤の組み合わせって素敵じゃないですか!」

 大笑いしながら話題は移民局での研修に移り、終始冷たい態度だった若い講師をふと思い出し〈あの人、意地悪だったわね〉とわたしがオスマンに告げると、すかさずザックがこうつぶやいた。

「不幸なんだよ」

「不幸?」

「意地悪な人、苛立った人…、そういう人は実際に不幸せ、あるいは自分は不幸だと頑なに信じきってるのさ。だからそうっとしておくしかない」

 陽気で話術に長けた彼は、同時にストレートに要点に切り込む人でもあった。

「ところで、ミオって名前にはどういう意味があるの?」

 ザックの質問にうーんと首を傾げ、

「まあ、美しい印象とか雰囲気とか、そんな感じかな」

 苦笑いしながら告げると、すぐにローランが合いの手を挟む。

「だけど、二回目でその印象は消え去るよ」

 大笑いしながら、話題はそれぞれの名の由来になった。

 ザックの本名はやたらと長いらしく、頭の部分だけを切り取って通称ザックで通しているが、本来〈神は覚えているだろう〉という壮大な意味を秘めているらしい。ローランはローリエの葉が由来、バルバラは異邦人、モロッコ人ニザールは〈誠実でまっすぐな男〉、ひとりアイフォン片手に自らの名の由来を検索していたオスマンが突然顔を上げ、素っ頓狂な声でこう叫んだ。

「僕の名前、若い蛇って意味だって…!」


 大いに笑って楽しい気分で別れた帰り道、一枚のポスターに目が留まった。モノクロームの大写しでアラブ系の少年がじっとこちらを窺っている。おでこにはそこだけカラーで、〈貧困〉と書かれた黄色い付箋が一枚、ぴたり貼りつけられている。

〈レッテルを張るのはやめて〉

 貧困を脱するには六世代がかかります、永続的に彼らを裁くのはやめてください…コピーの下にはそう続けられていた。

 先入観、偏見、排他主義―、凝り固まったそれらの思考をもっとも効果的に解きほぐせるのって、やっぱり〈笑い〉なのかもしれないな…。

 誰かの頬を思わず緩ませ、笑いを届け生き続ける限り、ザック、神様はあなたのことを絶対に忘れたりしないでしょう。

一週間、南仏の義父宅に帰省してきた。

80を超えてもダンスに卓球クラブにと元気そのものだった義父、

二年前にはとうとう恋人までできて、寂しがり屋の義父もこれであたたかな生活が送れるだろうと

離れて暮らすわたしたちはそっと胸をなでおろした。

義父より2歳年下の恋人ファニーはネットを使いこなすエネルギッシュなマダムだ。

大きな声で絶え間なく喋り、よく笑う。

80を超えたふたりは南の人間らしく日常の些細な喧嘩も派手にやり合うが、

愛情表現はやっぱりフランス人。

あれはローランとわたしがはじめてファニーの家に招かれた日のことだった。

玄関口で初対面の挨拶を交わすわたしたちを横目に、

義父はひとり定位置らしいソファに慣れた様子でそそくさと腰を下ろした。

「さあ、お前たちもそこに座りなさい」

着席をうながす義父の姿が見知らぬ男を見るようで、妙にくすぐったかった。

義父もまた息子夫婦の手前、どことなく落ち着かない様子だ。

内心ちょっと戸惑っているわたしたち三人をよそに、

ファニーだけが若い娘みたいにそわそわと浮かれていた。

ブーダンノワールとリンゴのソテー、デザートは薄いリンゴのパイ。

きっとこの日を誰よりも楽しみにしていたのだろう、彼女のよろこびがキッチン中にあふれていた。

昼食を終え、ようやくぎこちなさがほぐれてきた頃、

ファニーがそろそろと立ち上がり義父の後ろに進み出ると、

椅子越しにその背中をぎゅっと抱きしめた。

義父にもたれかかるようにして、頬すり寄せながら愛のことばをささやくファニー。

ああ、フランス女性って80歳になってもこんな風に愛を表現するんだ…

うっとり微笑むファニーの横顔は無数の皺に深く縁どられていて、

わたしはそれをとても魅惑的だと思った。

あの午後の彼女の満ち足りたよろこびを表現するのに、わたしは〈セクシー〉以上にふさわしい単語を見つけられない。あまりにも安易で、合成着色料みたいに安っぽくなりかねない単語だと百も承知しつつ。そうしてあの午後の彼女を思い出すたび、わたしの中でセクシーという単語の意味が上書きされる。若さの放つ粗削りな性的魅力なんて到底足元にも及ばない、それは凝縮されたいのちの華やぎみたいな色気だった。

「わたしはね、娘とも息子とももう縁がないの…」

二回目に会ったとき、義父宅のキッチンでファニーはわたしにそう告げた。

野菜を刻むわたしの背に向けて、こちらの反応を計るようにぽつりぽつりことばを選んでいた彼女は、やがて重い荷物を下ろしでもするように自身の物語を洗いざらい語りはじめた。

苦い影だけを残して、彼女の人生を足早に通り過ぎていった人々、何度も繰り返された〈なぜ?〉。答えを得ぬまま過ごしてきた、その後の長い時間。エネルギッシュなファニーの内側にはぽっかり口を広げていた、思いがけない孤独。

「ずっとひとりだと思っていたけど、もういい。わたしにはあなたたちがいる」

誕生日に電話すると、電話口の向こうで彼女はそう涙声で笑った。すべての歯車がようやくうまく回りだし、義父もファニーも人生の静かな夕暮れをふたり穏やかに過ごしていくのだろう、そう思っていた矢先、義父が病に倒れた。

一週間の滞在中、介護サービスの手続きや家の整理にローランとふたり走り回った。義父は陽気さを失い、傍らで見守るファニーにとっても辛い時間が続いている。

「ねえ、ミオ。カーラー巻いてくれる?」

「カーラーなんて巻いたことないけど、挑戦してみましょうか」

義父とローランが連れ立って出かけた日、バスルームは俄かヘアサロンになった。

「だめだめ、もっとイタッ!って叫んじゃうくらい、強く引っ張って巻いてちょうだい」

「わかったわ」

バービー人形のそれみたいに黄色くてつやつやしたファニーの細い髪の毛をぎゅっと引っ張る。

「イタッ!そうそう、その調子…」

洗面台の前に椅子を置きファニーを座らせ、鏡越しに目を合わせながら、

わたしはファニーの恋の歴史に耳を傾ける。

「またすぐに戻ってくるよ、そういい残して出ていったきり、

 その男は二度と戻ってこなかったわ…」

古い映画でも見るようにわたしの頭の中でまだ若いファニー、見知らぬアンリやミカエルがそれぞれの役を演じはじめる。

「ね、あなたの一番の大恋愛ってどの恋だったの?」

「…そうね、今のこの恋じゃないかしら」

「…」

「一年前はすべてが美しかった。わかるでしょ?

 彼はまだ元気で、彼がやってくる日にはわたし、

 待ち遠しくて庭の階段に腰を下ろして頬杖ついて待ってたの…」

南仏特有の黄色い光がファニーの金髪の上をきらめいて滑る。

「ね、ミオ。人生って難しいわね」

同調することも否定することもできないまま、わたしは黙ってファニーを見つめた。

「…あなたの今のこの幸福を大事にするのよ」

鏡越しにファニーがいった。

すごく晴れてる

まもなく非常事態規制緩和とあって、たぶんみんなわくわくしている

ああ、早くカフェのテラスに座りたい…

ようやく陽射しも強くなってきたのだもの、

さぞかしビールが美味しいことでしょう


土曜の午後遅く、近所のちいさな本屋さんへ

パリ北部へ向かってちょっと坂を上るこの界隈へは

コロナ以来、あまり足を延ばしていない

アートブックやバンドデシネがぎっしりの教会裏のちいさな本屋

ついでに人もわんさかいた

狭い店内をうろちょろしていると、店員の男性が客のマダムに

とある本を説明しているらしいのが耳に入った

「まあ、いってみれば日本版メアリー・ポピンズですね」

なになに??日本版ポピンズ…??

気になりつつも、せっせと目当ての本を探し続けた


ごくごく一部の作家を除いて、漫画にはほぼ縁がなかったけれど、

かよみさんの漫画を描き始めてようやく瞠目

とはいえ、今のところわたしが惹かれているのは

漫画よりはバンドデシネ(フランスの漫画)の方で、

ひとくちにバンドデシネといってもメジャーなものには興味がなく

パーソナルな作風の小品に心惹かれる、という相変わらずのワンパターン

たぶん、いちばんの理由は絵柄だろう

なにせ、いかにも漫画風のお目目きらきらが個人的に苦手なのだ…(笑)

とはいえ、ネットで昨今の日本の流行り漫画を少しだけちら読みして、

面白く読んだのもまだ事実だけれど。

昨日、手に入れた二冊。

絵も漫画というよりはイラストレーション、もしくはデッサンに近い

内容もあってないような短い文章の連なりだったり、

あるいは〈思い出〉と呼ぶにはあまりにあっさりとした、

父親というひとりの男の人生、その最後の断片についての記録だったり…

日常であれ、非日常であれ、わたしたちが過ごす時間のひとコマを

さくっとことば少なに掬い取ったようなスケッチ的な作品、好きだなぁ…

自分の『好き』をじっと眺めていると、今更ながら

わたしは別に〈起承転結〉なんて求めてないんだなぁと気づいて、

すこし自由な気分になった