Girl's Talk
一週間、南仏の義父宅に帰省してきた。
80を超えてもダンスに卓球クラブにと元気そのものだった義父、
二年前にはとうとう恋人までできて、寂しがり屋の義父もこれであたたかな生活が送れるだろうと
離れて暮らすわたしたちはそっと胸をなでおろした。
義父より2歳年下の恋人ファニーはネットを使いこなすエネルギッシュなマダムだ。
大きな声で絶え間なく喋り、よく笑う。
80を超えたふたりは南の人間らしく日常の些細な喧嘩も派手にやり合うが、
愛情表現はやっぱりフランス人。
あれはローランとわたしがはじめてファニーの家に招かれた日のことだった。
玄関口で初対面の挨拶を交わすわたしたちを横目に、
義父はひとり定位置らしいソファに慣れた様子でそそくさと腰を下ろした。
「さあ、お前たちもそこに座りなさい」
着席をうながす義父の姿が見知らぬ男を見るようで、妙にくすぐったかった。
義父もまた息子夫婦の手前、どことなく落ち着かない様子だ。
内心ちょっと戸惑っているわたしたち三人をよそに、
ファニーだけが若い娘みたいにそわそわと浮かれていた。
ブーダンノワールとリンゴのソテー、デザートは薄いリンゴのパイ。
きっとこの日を誰よりも楽しみにしていたのだろう、彼女のよろこびがキッチン中にあふれていた。
昼食を終え、ようやくぎこちなさがほぐれてきた頃、
ファニーがそろそろと立ち上がり義父の後ろに進み出ると、
椅子越しにその背中をぎゅっと抱きしめた。
義父にもたれかかるようにして、頬すり寄せながら愛のことばをささやくファニー。
ああ、フランス女性って80歳になってもこんな風に愛を表現するんだ…
うっとり微笑むファニーの横顔は無数の皺に深く縁どられていて、
わたしはそれをとても魅惑的だと思った。
あの午後の彼女の満ち足りたよろこびを表現するのに、わたしは〈セクシー〉以上にふさわしい単語を見つけられない。あまりにも安易で、合成着色料みたいに安っぽくなりかねない単語だと百も承知しつつ。そうしてあの午後の彼女を思い出すたび、わたしの中でセクシーという単語の意味が上書きされる。若さの放つ粗削りな性的魅力なんて到底足元にも及ばない、それは凝縮されたいのちの華やぎみたいな色気だった。
「わたしはね、娘とも息子とももう縁がないの…」
二回目に会ったとき、義父宅のキッチンでファニーはわたしにそう告げた。
野菜を刻むわたしの背に向けて、こちらの反応を計るようにぽつりぽつりことばを選んでいた彼女は、やがて重い荷物を下ろしでもするように自身の物語を洗いざらい語りはじめた。
苦い影だけを残して、彼女の人生を足早に通り過ぎていった人々、何度も繰り返された〈なぜ?〉。答えを得ぬまま過ごしてきた、その後の長い時間。エネルギッシュなファニーの内側にはぽっかり口を広げていた、思いがけない孤独。
「ずっとひとりだと思っていたけど、もういい。わたしにはあなたたちがいる」
誕生日に電話すると、電話口の向こうで彼女はそう涙声で笑った。すべての歯車がようやくうまく回りだし、義父もファニーも人生の静かな夕暮れをふたり穏やかに過ごしていくのだろう、そう思っていた矢先、義父が病に倒れた。
一週間の滞在中、介護サービスの手続きや家の整理にローランとふたり走り回った。義父は陽気さを失い、傍らで見守るファニーにとっても辛い時間が続いている。
「ねえ、ミオ。カーラー巻いてくれる?」
「カーラーなんて巻いたことないけど、挑戦してみましょうか」
義父とローランが連れ立って出かけた日、バスルームは俄かヘアサロンになった。
「だめだめ、もっとイタッ!って叫んじゃうくらい、強く引っ張って巻いてちょうだい」
「わかったわ」
バービー人形のそれみたいに黄色くてつやつやしたファニーの細い髪の毛をぎゅっと引っ張る。
「イタッ!そうそう、その調子…」
洗面台の前に椅子を置きファニーを座らせ、鏡越しに目を合わせながら、
わたしはファニーの恋の歴史に耳を傾ける。
「またすぐに戻ってくるよ、そういい残して出ていったきり、
その男は二度と戻ってこなかったわ…」
古い映画でも見るようにわたしの頭の中でまだ若いファニー、見知らぬアンリやミカエルがそれぞれの役を演じはじめる。
「ね、あなたの一番の大恋愛ってどの恋だったの?」
「…そうね、今のこの恋じゃないかしら」
「…」
「一年前はすべてが美しかった。わかるでしょ?
彼はまだ元気で、彼がやってくる日にはわたし、
待ち遠しくて庭の階段に腰を下ろして頬杖ついて待ってたの…」
南仏特有の黄色い光がファニーの金髪の上をきらめいて滑る。
「ね、ミオ。人生って難しいわね」
同調することも否定することもできないまま、わたしは黙ってファニーを見つめた。
「…あなたの今のこの幸福を大事にするのよ」
鏡越しにファニーがいった。
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