神は君を覚えているだろう
「明日なんだけど、友達も連れてきていいかな?」
わたし、ローラン、バルバラ、モロッコ人のオスマン。いつものメンバーに、さらにオスマンの友人ふたりが加わり、その日は賑やかな一日になった。ひとり遅れてやって来たザックはモロッコ系フランス人で二十歳そこそこ、秋晴れの空の下、白いシャツがまぶしい。先に食べ始めていたわたしたちの隣にザックが腰を下ろすと、すぐにウェイトレスが現れた。
「じゃあ、僕はコーラを」
「ええ、それから?」
「…以上で」
「コーラだけ? 何も食べないの? お腹すいてるでしょ?」
「遅い朝食をとってきたばかりだから。自分の胃だもん、腹が減ってるかどうかは僕がいちばん知ってるよ」
ふたりのやり取りが可笑しくて、みな笑いだす。ウエイトレスがいたずらっぽくウィンクして立ち去る。
「パリの街ってストレスだらけだよ。レストランで何飲むかって聞かれるだろ? 無料のお冷で充分なのに、水をといえばさてミネラルウォーターか、はたまた炭酸水かと畳みかけてくる。怖気をなして、じゃあ、炭酸水…って思わず口走る子たちのなんと多いことか!」
くるくる回る愛嬌のいい瞳と、リズミカルなザックの語り口にみな声を立てて笑う。
「そうだ、反消費主義コーチなんて職業はどうだろう? 消費者のみなさん、プレッシャーに負けてはいけません、ここは毅然と(無料の)お冷で!といい切りましょう、さあ胸を張って堂々と…!ってみなにコーチングするんだ」
お腹を抱えて笑うわたしたちを横目に、医学生ザックが続ける。
「だけど、いったい誰が僕にコーチ料を払ってくれる? なにしろ、反消費主義なんだもの。顧客はみんな出し渋る。あ、そうか!最終的にレストラン業界がお金を積んでくれるに違いない。お願いですから、もうそんな活動やめてください、ってね」
時おりわたしたちの隣を横切る件のウエイトレスもすっかりザックの調子に巻き込まれ、なにかと冗談を交わしていく。こんな人っているんだなぁ。ふらり現れたと思ったら、いきなりみなを笑わせ楽しくさせる。わたしとオスマンとの出会いを聞かれ、移民局の研修が縁だと告げると、
「ああ、初めての豚肉を食しましょう!ってあれ?」
イスラム教徒ならではのジョークだ。
「僕の祖父母が移住してきた時にね、なぜフランスで暮らしたいのか、移民局で祖母が質問を受けたんだ。すっかり緊張したおばあちゃん、いったいなんて答えたと思う?」
「国旗が…フランス国旗が好きだから! 青、白、赤の組み合わせって素敵じゃないですか!」
大笑いしながら話題は移民局での研修に移り、終始冷たい態度だった若い講師をふと思い出し〈あの人、意地悪だったわね〉とわたしがオスマンに告げると、すかさずザックがこうつぶやいた。
「不幸なんだよ」
「不幸?」
「意地悪な人、苛立った人…、そういう人は実際に不幸せ、あるいは自分は不幸だと頑なに信じきってるのさ。だからそうっとしておくしかない」
陽気で話術に長けた彼は、同時にストレートに要点に切り込む人でもあった。
「ところで、ミオって名前にはどういう意味があるの?」
ザックの質問にうーんと首を傾げ、
「まあ、美しい印象とか雰囲気とか、そんな感じかな」
苦笑いしながら告げると、すぐにローランが合いの手を挟む。
「だけど、二回目でその印象は消え去るよ」
大笑いしながら、話題はそれぞれの名の由来になった。
ザックの本名はやたらと長いらしく、頭の部分だけを切り取って通称ザックで通しているが、本来〈神は覚えているだろう〉という壮大な意味を秘めているらしい。ローランはローリエの葉が由来、バルバラは異邦人、モロッコ人ニザールは〈誠実でまっすぐな男〉、ひとりアイフォン片手に自らの名の由来を検索していたオスマンが突然顔を上げ、素っ頓狂な声でこう叫んだ。
「僕の名前、若い蛇って意味だって…!」
大いに笑って楽しい気分で別れた帰り道、一枚のポスターに目が留まった。モノクロームの大写しでアラブ系の少年がじっとこちらを窺っている。おでこにはそこだけカラーで、〈貧困〉と書かれた黄色い付箋が一枚、ぴたり貼りつけられている。
〈レッテルを張るのはやめて〉
貧困を脱するには六世代がかかります、永続的に彼らを裁くのはやめてください…コピーの下にはそう続けられていた。
先入観、偏見、排他主義―、凝り固まったそれらの思考をもっとも効果的に解きほぐせるのって、やっぱり〈笑い〉なのかもしれないな…。
誰かの頬を思わず緩ませ、笑いを届け生き続ける限り、ザック、神様はあなたのことを絶対に忘れたりしないでしょう。
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