きらめきの採集
確信犯みたいにふたり顔を見合わせ、抜け出した映画のイベント。
スーツ姿のサラリーマンに混じり、笑い転げてあおった盃。
神戸時代を振り返るとき、そこにはある種の儚さを孕んだ
きらめくような瞬間がそこかしこに散りばめられていて、
思い出すたび、胸は今も少しだけ切なくなる。
ローランとの暮らしは相変わらず幸せ、平和そのもので、
わたしは毎日自分の幸運に感謝しているが、
特別な女友達と紡ぐ、あの輝くような瞬間だけはやっぱり別もの…
ううん、いい友人、好きな人間にならパリでもとうに恵まれている。
もともと数を望まないわたしには充分なくらいに。
けれど…
あの輝かしい瞬間は、そう簡単には起こらない。
つきあいの長さ、深さだけでは測れない、
あのきらめきは一種の化学反応みたいなものだから。
共鳴し合う気質、どこか似通った感性、
そうして同じ程度の幼児性とでもいえばいいのか、
同じレベルの精神の若さ、未熟さがあって、ようやく起こり得る稀な現象なんだもの…
そう願い焦がれていたわたしはついに、パリの街でその「きらめき」を集めはじめた。
お相手は同じバンドデシネのアトリエに通うイタリア人のマリア。
初日の自己紹介で好きな作家を上げるよういわれ、
マンガもバンドデシネもほぼ知らないけれど、と前置きをして、
つげ義春が好きです、と告げると
「僕も好き」うなずく先生と同時に、
教室の奥、勢いよく「わたしも!」と手を挙げた、その人だ。
なんなら、授業開始前、携帯片手に歩いてきた彼女が
最初に視界に飛び込んできたときの光景だって、わたしははっきりと記憶している。
出会い頭の映像が自動的に記憶にインプットされる相手というのは、
わたしの場合、のちになにかしらの縁ができる人なのだ。
そうして不思議なことに、この現象は相手が女性の場合のみ起こる。
最初の数週間は特に会話を交わすこともなく過ぎた。
机だっていつも離れていたし、
この人と話してみたいというもやもやした感情を
わたしは思春期の少女みたいにじれったい恥じらいと共に持て余していた。
いずれ訪れるだろう機会をそっとうかがいながら。
そうしてひと月が過ぎた頃、授業終わりにようやくわたしたちは正式にことばを交わした。
コートを羽織り、外に出るとお迎えのローランが待っていた。
聞けばマリアもわたしと同じ区に住んでいるという。
そのまま三人で歩いて帰った。
次の週、
「たぶんマリアと帰るから、お迎えはいらないよ」
ローランにそう告げて、家を出た。
本来なら30分の道のりをわたしたちは1時間かけて歩いて帰る。
毎回おしゃべりに夢中になり、道に迷うからだ。
相手との距離の縮め方を慎重に測りながら、何回目かに思い切ってたずねてみた。
「ね、ストリートアートに興味ある? いつかさ、一緒に自分たちの絵を貼ってみない?」
瞬間、マリアはぴたりと立ち止まり、
眼鏡の奥にたくさんのお星さまを浮かべて、こういった。
「それ、ずっとわたしの夢だったの…」
2週間後、今度はマリアがこう切り出した。
「ね、ミオ。いつかさ、わたしたちふたりでバンドデシネのアトリエをやってみない…?」
「え? わたしたちが講師でってこと?」
「そう…!」
マリアの目にまた無数の星がきらめく。
マリアは無邪気な自由人だ。
わたしのアドバイスには子羊みたいに素直に従うくせに、先生には食ってかかる。
「この登場人物ふたり、似すぎてて見分けがつかないよ」
「わたしの絵に登場する男はみんな禿げてるの!!」
「禿げてるのはいいとしても、顔だって似てるじゃないか」
「ちょっとよく見てよ!こっちの鼻はとがってるけど、こっちは丸い、そうでしょ?!」
それでも陽気な性格がみんなに愛されている。
パリの冬はつめたい。
きりりと冷えた夜気に白い息を吐きながら、わたしたちは出鱈目に右へ左へと路地を横切る。
星はようやくそれとわかるくらい、ちいさくまばらで、
それなのにわたしにはとてもとてもきらめいて見える。
いつのまにかわたしは、このふたりの帰り道を心待ちにするようになっていた。
「あ、そうだ! いつかこの話、わたしたちふたりの話をバンデシネに描けばいいんだよ!」
「もう若くはない、イタリア人と日本人女性がふたり、
いろんな話をしながら夜のパリを歩く話…!」
ある夜の帰り道、勢い込んで、けれどふざけならわたしがいうと、
マリアは再びぴたりと歩みを止め、しみじみとこういった。
「その話を描けるのはわたしじゃない。ミオだよ」
「いつかミオがこの話を描いてくれたら…わたし、すごくすごく感動すると思う…」
突然、自分が今、かけがえのない瞬間、
紛れもなく人生のうつくしいひとコマの、そのただなかにいることに気づく。
宣言するようにゆっくり静かに、わたしは白い息を吐く。
「…うん。わたしが描く。わたしたちのこの夜の散歩の話を。
だけどそれはすぐじゃない。もっと何年も先の話。
もっと一緒にいろんなことを分かち合ったその先に、
いつかわたし、この話をきっと描く」
「うん…」
マリアの頭上で砂糖粒みたいな星がきらきらと瞬いてる。
0コメント