ペンと鉛筆の狭間で

年が明けてから、晴れて無職となった

時間だけはたっぷりあるから、作画に専念しているのだけれど…

毎日きちんきちんと机に向かっているからといって、

必ずしも満足がいく絵が仕上がるとは限らない


秋から通い始めたアトリエでは、多少のうぬぼれを差し引いても、

おそらくわたしは「描ける女」ということになっていて、

今までひとりコツコツと描いてきたわたしにはそれだけで充分な励みだ

わたし以外、みな多様なバンドデシネ作品に通じていて、

そういう仲間が好意的に自分の絵に驚いてくれるのは素直にうれしい

今はそこからどうやって這い出すか、が次の課題


「自分らしい」というのをフランス語で「自分に似ている」と表現する

この表現は若手シェフが腕を競い合うTV番組で聞き知った

番組内で求められるのは単に「美味しい」だけじゃない、

新鮮な驚きをもたらす食材の組み合わせや、

お皿の上の斬新なデザイン、粋な演出…

美味しいのは当たり前で、いかにその先を目指すか、が命題なのだ

その中で若いシェフたちが時おり満足げにつぶやく、

「自分に似た一品がつくれたと思う…」


描きかけの作品を見ながら思う

アトリエに持っていけば、きっと悪くはない評価がもらえるだろう…

全体的にそこそこきれいに仕上がってるし、与えられたテーマを踏襲しつつ、

そこから少し飛躍もして、課題作品としてはおそらく充分

だけど…「わたしに似ている」のか?


バンドデシネを意識し始めてから

つまり、かよみさんの追悼マンガを描いてから―

鉛筆がメインの画材に返り咲いた

もともと高校時代、濃いめのデッサン鉛筆で描いていて、

モノクロが好きなのはその頃から変わらない

当時はほんの少しエッチングにも挑戦した

版画インクのあの独特の深みある黒には今でも嫉妬している

けれど、面倒くさがりのわたしにはいかんせん、

プレス機などの道具とそれを置ける場所の確保が必要なこと、

もしくは彫って刷っての手順がまどろっこしいのである

まあ、それあってこそのあの画面なのだけれど…!


神戸時代はもっぱらペン

版画のような深みある黒は無理でも、

パキンと無機質な黒と白で構成するのも面白く、

だからかよみさんの漫画を描こうと決めた時も最初はペンでスケッチした、が…

彼女のふわりひょうひょうとした雰囲気を再現するのにペンじゃあ無理、

それなら…と久しぶりに握った鉛筆

ペンと違ってやわらかな「ぼかし」が効くし、

古い友達に再会したようなよろこびがあって、ふたたび鉛筆時代の到来


で、「わたしに似た」作品って…?

「ちょっぴり毒があって、エロティック」

わたしをよく知る友人たちなら、たぶんほとんどがそう評するんじゃないだろか

ところが…

アトリエのエクササイズで描いたペン画以外、

ここ最近のどれ(ストーリーもの)を振り返っても

「毒」はおろか、「エロティシズム」の「エ」の字すら登場していない…

描きながら、多少のジレンマを感じるのはたぶんそのせいだ

バンドデシネという形態を取るようになってから、

(わたしなりに)優等生的な作品づくりをしている気がして、

いまだ、かすかに居残っているわたしの中の不良娘が不服気なのだ…

もちろん人は日々経験を重ねるし、経験は確実に嗜好にも影響する

作るものだって徐々に変化してゆく

過去の自分の焼き増しをしたいとは思わないし、

日々退化していくリビドーに従って絵からエロティシズムが、

あるいはささやかな反抗精神が薄れてゆくのもまた当然のことなのかもしれない


それでも不思議なのが、鉛筆をペンに握り替えた途端、

わずかに残っている「尖り」が表に現れるような気がするのだ

鉛筆だとこうはならない

「ね、ローラン。鉛筆とペン画、どっちがいいと思う?」

「どっちも好きだけど、どちらか選べというなら鉛筆」

「鉛筆の方が作画としてオリジナリティがあると思う」

そういわれてうれしいような、さびしいような…

他の友人たちに同じ質問を投げると

「どちらともえいない」

鉛筆で描こうとするとき、わたしはとかく丁寧になる

鉛筆の黒は何回も塗り重ねないと深みを増さないから、

少しずつ少しずつ丁寧に描く

だけど鉛筆という「媒体」のせいだけじゃないだろう…

鉛筆でだってもっと面白い、きれいなだけじゃない画面は作れるはず…

さらにいえば絵だけの問題じゃないのだ

今はまだバンドデシネという形態に則ってなにかをつくろうというのがやっとで、

「自分に似た」作品をつくるレベルまで到達していない…

それでも一度乗り込んだバンドデシネという舟の上、

なんとか「今の自分に似た」物語を発露したく、毎日鉛筆を握る






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