日本に降る雨、フランスに降る雨

つい先日のこと、雨のしたたる音で目が覚めた。

目覚め際、一瞬、日本の雨を思い出した。

日本の雨? 雨にフランスも日本も違いなんてある…?

布団に包まったまま自問して気がついた。

日本の雨って、こっちの雨よりずっと存在感が強い気がする…

瞼の裏に記憶の中のあまたの雨が再生される。

幼い頃の梅雨。

降っても降っても降り止まない、

透明な線を何千本、何万本と定規で引いたような、あの雨。

アスファルトを叩きつける雨粒の、時に暴力的とさえいえる轟音。

足元に生まれては消えていく、水しぶきの王冠。

水の匂い。

冷たく重く湿った服。

靴の中でくちゅくちゅと音を立てる雨水。

帰りつく頃にはきっと、靴下は絞れるくらいに濡れていて、

足の指はお風呂上りみたいにふやけているだろう…。

幼い日の梅雨時、文字通り、世界はすっぽり雨に包まれていて、

もはや差す意味のない傘を不器用に意固地に差し続けるわたしの手は木の葉のようにちいさかった。


「あの梅雨はいったいどこにいったんだろう…?」

大人になってからの梅雨は幼少期の記憶のそれよりずっと慎ましやかになっていて、

わたしはたびたびそう自問した。

温暖化による気候変動?

ううん、幼かったから、より一層圧倒されていたのかも…それも一理あるだろう。

とはいえ、大人になってからの日本の雨も、パリのそれよりやはりずっと印象が強い。

オフィスの窓から、あるいは通勤途中の車窓から眺める薄墨色の街。

細やかな霧雨。ばらばらと傘を叩く大粒の雨。五月雨、秋雨。やらずの雨に涙雨。

森羅万象に畏敬の念を抱く日本人の感性が

現代を生きるわたしたちのDNAにも少なからず残っているせいなのか、

日本の雨はその時々で表情を変えながらも、

こちらの雨よりずっと強くその存在を感じさせる。

まるで雨それ自体がひとつの生きものみたいに…。

それに比べると、こちらの雨は飼いならされたそれだ。

人間社会に空を間借りして降る雨だ。

途端に日本の雨が恋しくなる。

ううん、もっと正確にいうと、

雨に降られているうちにやがて訪れる、あの平穏が恋しいのだ。

一向に止まない雨にとうとう自分も時間も明け渡したときの、

あの不思議な清々しさが恋しい。


後日、日本人の友達にその話をしたら、

「こっちは中々長雨にならないからじゃない?降っては止みの繰り返しでしょ?」

そうかもしれない…

ローランもまた

「それはたぶん、フランスではなくて〈パリの雨〉だからだよ。

 たとえば南仏の雨はパリの雨より時にずっと激しいよ」

ああ、そうね。

ついこの間も北部で水害があったんだった…

わたしの雨に関する推察はこうして呆気なく覆された。たぶん。


水害は恐ろしい。

そうでなくても雨が続けば文句も垂れる。

それでも用事のない日に窓の向こうの雨を眺めていると、なぜか心休まる。

雨に洗われた街や中庭の草木はいつにも増して瑞々しく、目に美しい。

眺めているこちらの瞳まで洗われるようだ。

雨音をBGMにゆっくりコーヒーを飲む。

今、自分は守られていて安全なんだ…

安堵に包まれながら、同時に身を寄せる家のない人々を思う。











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