十一歳の夏

 何回目かの煙草の煙を吐き出すと、急に目の前の景色がぐらり揺れ動いた。路上に設置された脚のぐらつくテーブルを思わず握りしめ、わたしは幼い日にまたがった回転木馬を思い出す。手を振るママが視界から消えた途端、そこはもう未知の領域。心もとなさに襲われて、わたしはぎゅっと手綱を握る。

 近所に住むJは電子音楽のミュージシャンで、その昔、日本へ留学したことがあるという。会えばいつもフランス語で話したし、日本が話題に上ることもほとんどなくて、その日酔った頭で本来なら出会い頭に問うべき質問をふと思いつき、そういえばどうして日本に行ったの、と問うてみた。

「文学部だったんだよ。ダメもとで奨学金に応募したらまぐれで合格した」

 太宰が好きだったという彼に思わず苦笑いして、わたしは駄目だわぁ、ねえ知ってる?三島が太宰のこと評していったことば、と続ける。

「治りたがらない病人には病人で居続ける資格がない、っていうの」

 いいたいことはわかるよ、と前置きしてから、Jは初めて日本語でゆっくり、手繰り寄せるようにいった。まるで、大事なことだから君の母国語、自分がかつて憧れた文学、そのオリジナルの言語で伝えたい、とでもいうように。

「人間失格ってタイトルが好きです」

 そうして、ぽつんと付け加えた。

「…あれは青春の文学ですから」

 それはそのとき想像しえたどんな返しより素直で明快で、ラム酒うずまくわたしの胸にあらゆる議論を蹴散らし、すとんと着地した。

「…そうね」

 つぶやいた途端、テーブルは円盤に様変わりし、しゅるしゅる音を立て時間が逆行し始める。Jの細い小柄なからだ、肩にかかるまっすぐな黒髪にあらためて目をやる。〈ニンゲンシッカク〉に憧れた青年がそこにいた。

 はじめての意識的なフランスとの遭遇はサガンの〈悲しみよ、こんにちは〉だった。十一歳の夏休み、母と行った町の本屋でやはりタイトルに一目ぼれした。誰にも見られないようドキドキしながら手を伸ばし、冒頭のエリュアールの詩、ついで本文の最初の一行を読んだ時点で完全にノックアウト、自分の知らない世界が確実にそこに存在しているのを感じて、文字通りゾクゾクした。それでも母の前で購入するのは憚られた。幼いながら〈悲しみよ、こんにちは〉なんて、あまりに思春期的なタイトルで気恥ずかしかったのだ。その夜、何も買わずに帰宅したわたしの頭の中を件のタイトルがびゅんびゅん飛び交い、明日になったら友達の家へ行くとかなんとかいって、ひとりで本屋へ戻ろう…それだけを唱えながら眠りについた。

 翌日、朝いちばんに家を出た。触れば火傷しそうなアスファルト、毒々しいほどの夾竹桃のピンク、黒々と茂る南国の緑。見上げる空はどこまでも青く高く乾いていて、姿の見えないセミが狂ったように鳴いていた。ほとんど走るようにして本屋から帰ったわたしは桜島を臨む二階の部屋に閉じこもり、夢中になって読み耽った。途中何度も立ち止まり、ことばの醸す香りを反芻し、時にくらくら眩暈さえ感じて。最後の一行を読み終えたときには部屋はすでに薄暗く、わたしは畳の上にぺたりしゃがみ込んだまま、すごく遠い所へ来てしまった…ただただそう思った。

 二年後の秋、ひとりで聴いた「枯葉」の耳をくすぐるような仏語の響き、何を歌っているのか意味などまったくわからないのに、〈今〉とその歌とがかちりと接続したような奇妙な感覚、その少し後に出会う映画「さよなら、子供たち」の〈自由の使い道を教える〉というセリフへの驚きと憧れ…それらひとつひとつを星座みたいに線でつないで、今わたしはここにいる。それでもちいさなわたしがフランス行きを考えるようになるのは、まだまだ先の話だ。その前に出会わなくてはならない物語、映画、愛すべき人々との日々がいまだたっぷりとあるのだから。

 今日、わたしを取り巻く日常にアンニュイの気配はない。十一歳のわたしを魅了した倦怠はいつのまにか虹の彼方に消え失せ、見上げれば本を片手に走ったあの日のように憂いのないまぶしい空が延々と続いている。十一歳の夏を思い出すといつも思う。出会うべきものにはいつか必ず出会うよう仕組まれていて、一瞬一瞬にそのヒントが隠されているんじゃないかしら、と。

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