夜風
いつもよりちょっと多めにお酒を飲んでよく食べた夜、気がついたら友人Oからメッセージが届いていた。
「元気にしてる?」
「うん、元気よ。あなたは?」
Oとは役所の研修で出会った。ヴィザの更新にあたってフランスという国のおおまかなシステムや文化を学ぶという研修で、EU加盟国以外の国から来た外国人が対象者だった。モロッコ人のOはいかにもな好青年で、アイロンの当たったシャツにすっと伸びた姿勢が清々しく、教室の入り口近くに座っていたOに、講師は思わず「君は通訳?」と尋ねた。フランス語が不得手な受講者には通訳がついていたからだ。「いいえ」なんとなくOと目が合って、互いに微笑んだ。休み時間に少しおしゃべりして、ランチ休憩には一緒に近所のカフェに行った。どうしてそんな流れになったのか、話題は宗教に移っていった。トルコで見たスーフィズムのダンスが素晴らしかったとわたしがいうと、「みんな宗教については話題にしたがらないけど、残念なことだと思うよ。どの宗教にもそこで培われたすばらしい文化やうつくしい逸話があるんだし」その話しぶりがとても伸びやかで、気持ちの良い風にあたったような気分になった。
過ごした時間の長短に関わらず、すっと気持ちの通い合う相手がいる。Oがそうだ。彼女と一緒にうちへ遊びに来たとき、Oはかけていた音楽にすぐ反応して、そこからわたしたちは互いの音楽の傾向が近いことを知った。Oはクラシックギターの演奏が趣味で、高校時代には地元のコンクールで優勝したという。外出禁止に入ると、ちょっと髭が伸びたOがマヌーシュ・ジャズを演奏したビデオメッセージを送ってくれて、「自宅待機が開けたら、あなたは路上でギター弾いて。わたしは隣で絵を描くから」「いいね、モンマルトル辺りかな?」などと笑い合った。
「僕の会社は6月末までテレワークが続くんだ」
「そうなの。まあでも自宅なら気晴らしにギターも弾けるしね」
「うん。今、近所の親戚の家にいるよ」
「あら、そうなの?」
「彼女と別れることになった」
電話で話したい? うん。
誰かの別れの痛みに寄り添うのは久しぶりだった。電話の向こうのOの声はいつも通り穏やかであたたかみがあり、その静かな声が淡々と彼女の裏切りを告げた。それはよくあるような〝もうひとりの誰か〟についての話ではなかったけれど、「もう一度話し合ってみたら?」とか「やりなおす気はないの?」といった台詞を慎ませるだけの破壊力が確かにあった。こういうとき、どんなことばをかければいいんだろう…ううん、ただ聞いてあげればいいんだ。そのときにはもう夜中の1時を過ぎていて、ローランはソファで音を落としてTVを見、わたしは真っ暗な寝室でベッドに寝そべりながら、彼の声に耳を澄ました。やわらかい、ときおり消え入りそうに震えるOの声に神経を集中していると、〈わたし〉をかたどる肉体的な境界線がぱらぱらと崩れていって、暗闇の中にぼんやり漂っているような、それがとても心地いいような不思議な感覚に包まれた。こんな夜を確かに以前、わたしも誰かと分ちあった。
「ねぇ今こんなこといっても、なんの助けにもならないのは百も承知だけど…あなたはじきにまた別の物語に出会うし、今日のこの物語を懐かしく思い出す日もきっと来る」
「うん…」
「とりあえず、あなたより20年長く生きてるからね、これだけは確かよ」
ねえ、想像してみて。今のこの痛みはもっとふさわしい物語に出会うための通過儀礼なの。1か月後「ミオ、あたらしい彼女だよ!」ってあなたが素敵な女の子を紹介してくれる。ああ、よかったって思いつつ、心配して損したじゃない!って一緒に笑う。ふふ…今夜はじめてOが笑う。
「それからね…」
次の月も、その次の月も1か月ごとにあたらしい彼女を次々に紹介されて、終いに呆れはててあなたにいう。
「もう、うんざりよ。いい加減にしなさい、若造め!」
悪くないね…今度は声をたててOが笑った。それからなんということはないお互いの国の話をした。カサブランカにいた頃、毎朝出勤のために並んでいたタクシー待ちの行列、その奪い合いがどんなに熾烈だったか。一度は5人の女性とようやく1台のタクシーに乗り込んだと思ったら、車内に一匹の蜂が紛れ込んできた。女の子たちはぎゃあぎゃあ大騒ぎでぶるんぶるん腕を振り回し、車内はちょっとしたパニック。そうこうする内にひとり静かに身を縮めていたOの腕にぶすりと蜂が一刺しして、めだたしめでたし。蜂はあっけなく死に、さっきまで大騒ぎしていた女の子たちは手を叩いてよろこんだ。大丈夫、死にはしないから!
「ねえ、あなたの国ってタクシー通勤が多いの? バスじゃなくて?」
「バスももちろんあるけど、窓がなくてぎゅう詰めで大変なんだ」
「そうか。窓が開かないなんて暑いんでしょうね」
「いや、逆だよ。ガラス窓はぜんぶ割られっぱなしで、風が吹き込んで寒いんだ」
なんてジョークなの、ふたり一緒に吹き出した。
「ねえミオ、あの研修会の女事務員、イヤな奴だったね」
「ホントにね。誰に対してもすごくいじわるだった」
「だけど行ってよかった。あの研修会のおかげで素敵な友情にめぐり会えたんだから」
「そうね」
「…ありがとう」
きらきらした風がすっと吹き過ぎた気がした。
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