入場制限、適用します
3月14日、翌15日からのレストラン、カフェの営業停止が発表された。
『がっかりするような発令だとは思います。何しろ、私たちフランス人はみなで集まるのが好きな、陽気な民族ですから。わたしたちは共に過ごすのをよろこびとする民族です。こと、怖れが精神を蝕み始めるような時には尚のこと』
面白いなぁ。こういう時にこういう言葉がさらりと出るんだな。フィリップ首相の会見で、いちばん印象に残った部分だ。翌15日は晴れて気持ちのいい日曜で、カフェが閉まってるなら…と思ったのかどうかは知らないが、公園はピクニックを楽しむ人であふれたという。そうして16日の外出禁止令。近所の大型スーパーは入店制限がされていて、15名ずつ30分のみ利用可能。列に並び、ようやく入店を許されたと思ったら、目の前にいたアジア女性が先頭のお年寄りを追い越し、我先にと走っていった。なんだかなぁ。卵は売り切れていたけれど、ありがたいことにトイレットペーパーもパスタもまだ充分にあって、平常どおり必要最低限のものだけを買って出た。わたしのように健康で子供もいない人間はいくらでもまた並べばいい。途中スーツケースを押す若者を何組か見て、こんな時期に何だろう…と思っていたら、どうやらパリ脱出を図る人が少なからずいるらしい。
先日、パン屋に寄ったローランが呆れながら帰ってきた。聞けば目の前に並んでいた若者ふたりの会話がひどかったという。
『まったく〇〇人のせいで。蝙蝠でもネズミでも何でも食うんだろ? やつらの文化ときたらロクなもんじゃない。ちょっとマシなのはブルース・リーぐらいさ』
若者が去ってから店主とふたり目を合わせ、大きくため息をついたという。
〈怖れが精神を蝕み始める〉とき、大切なのは焦点をどこへ合わすかだ。自己管理も節制ももちろん大事。同時に世の中、不穏な空気だけど集まってちょっとグラスを傾けようよ、お日さま照ってるからピクニックしようよというのも人間らしくて、キリギリス人間のわたしは心情的に共感できる。そもそもそういえる状況下ではまだまだ怖れも危機感も認めるに足らないくらいちっぽけなんだ。けれどちっぽけだったはずの怖れがやがて現実として目の前に迫り始めたとき、うっかりしていると判断力を失ってしまう。簡単に利己主義、排他主義に呑まれてしまう。アメリカではここ数か月で拳銃や弾薬の売り上げがほぼ倍増しているらしいと聞いたけれど…いったい何のために? 平常時、わたしたちが子供たちに教えること。思いやり深く、思慮深くありなさい、助け合いなさい。ひとたび〈平穏な毎日〉が失われたとき、その教えをいちばん最初に手放すのはいつもわたしたち大人だ。かくいうわたしも人間がえらくちっちゃいのは充分に自覚しているから、こういうときこそ、自分がどんな人間でいたいかを考えるべきだし、どんな人間でいたいかを自由に〈決められる〉なんて、なかなかに素敵で、考えるだけで気分が良くなる。
そんな訳でわたしは、怖れに入場制限をかけられる人間でいようと思う。
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