陰陽、ネ。
月曜日、目覚めたら首と肩がつっていた。古くなって油の切れた歯車みたいに、右耳と右肩をつなぐラインがギシギシいう。ベッドから起き上がるのと同時に〈イタッ!〉と自然に声が漏れた。
寝違えなら10日もすれば自然に消えるよ。
2週間が過ぎた。まるで何かの儀式みたいに毎朝〈イタッ!〉と叫び続け、痛みが誰かほかの人のもとへと去ってくれるのを辛抱強く待った。一向にいなくなる気配がしなかった。知人に〈13区の中国人の先生〉の電話番号をもらい、金曜の夜、すがる思いで電話をかけた。
もしもし、マッサージの予約をしたいのですが…
あ? ここマッサージ違うね、ここ、中国鍼灸ね。ガシャン!
すごい勢いで切られた。もしかしたら治療中なのかも…と思ったけれど、そうじゃなくて単に電話が好きじゃないんだろうとすぐに思いなおし、再度めげずに電話した。
もしもし? あの、鍼灸でいいんです! とにかく予約をお願いします。できるだけ早く。
切られる前に何が何でも予約しなきゃ。ドキドキしながら早口で一気に言い切る。
明日、13時大丈夫?
13時、問題ありません。あの料金や…
ハイ、明日13時ね! さよなら! ガシャン! 本当に電話が嫌いらしい。
翌日、10時過ぎに起きて朝食を取り、コーヒーカップを洗っていて、ふと気づいた。あれ? 今朝は〈イタッ!〉っていってないんじゃ…痛みはいなくなっていた。
13区は中華街だ。パリでいちばん大きい中華マーケットを筆頭にアジア系のレストランや商店が軒をつらねる。駅から10分、50人くらいは入れそうな中華レストランを右に曲がると、〈中国鍼灸〉のちいさな赤い看板が見えた。確かに西洋式アパルトマンの一階に違いないのに、なぜか日本の雑居ビル風情が漂っている。「こんにちは」ドアを開けると入ってすぐ右わきにリクライニングチェアがベンチみたいに伸びていた。しばらくすると奥からおばさんが出てきて、リクライニングチェアを鼻で示しながら、「そこに座って、ちょっと待って」と告げ、そのまますぐにいなくなった。チェアは衝立で仕切られた部屋の隅に無理やり押し込まれていて、体を横向きにして壁との間の隙間に潜り込まなきゃどうにも座れそうにない。わたしとローランは立ったまま玄関入り口で待った。しばらくすると「コンニチハ、どこ痛い?」と白衣のおじいさんが日本語を話しながら現れた。できるだけわかりやすい日本語でゆっくり説明する。「大丈夫、こっち来て」途中で靴を脱ぎ、おじいさんの後ろに続いて奥の部屋に入る。ものの2分でわたしの左半身(右半身は少しだけ)は鍼だらけになる。
先生、どうして日本語がお上手なんですか?
Longtemps, longtemps(むかしむかし)、日本で鍼灸を教えてたね。フミさん、知ってる?
いいえ。
フミさん、フランス語の先生ね。日本人たくさん知ってる。わたし、ここ二十年。ここ、日本人いっぱい来るよ。
わたしにこちらを紹介してくれた知人も、そのむかし在仏歴の長い日本人女性に、腕は確かな先生だから、と教えてもらったという。どうやら謎のフミさんを中心に日本人社会で長く語り継がれてきた先生らしい。
このまま、20分待つネ。リラックス、Circulation(循環)良くなる。
フランス語と日本語をごちゃまぜにしてそう告げると、おじいさん先生はパチンと電気を消していなくなった。わたしはひとり薄暗い部屋に取り残された。殺風景なのに、妙に落ち着く部屋。チクタク、チクタク…時計の音が今はもうない、おじいちゃん家を思い出させる。眠ってしまいたいような、だけど眠るには短すぎる時間を持て余し、目をつぶったり、はたまた暗がりに目を凝らして人体図を眺めたりするうちにグ、グググ…とお腹がちいさく喋りだすのが聞こえた。カイロプラティックのお世話になっていた20代の頃、寝そべって先生の最初の手の動きを待っているだけでわたしのお腹はググググ…、頻繁に喋った。リラックスした身体が自ら正しく循環し始める合図だよ、当時の先生はそういった。久しぶりに〈循環のささやく声〉を聞いて、わたしのおじいさん先生に寄せる信頼は自動的に跳ね上がる。
20分が過ぎ、おじいさん先生が現れて首と肩を軽くカッサでマッサージされると、確かに朝より軽くなっている気がした。フランス語と日本語で丁寧に礼を述べ、上機嫌で鍼灸院を出た。
待っている間に近所のおすすめレストランを検索したよ。カンボジア料理なんて、どう?
いいね!
歩き始めてからローランが「僕の暑がりの謎も聞けばよかった」というのであわてて引き返すと、ちょうど店先に出て空を見上げていたおじいさん先生がくるりと背を返し扉に手をかけ、鍼灸院の奥へ消えようとするところだった。「ムッシュ!」と呼びかけても届かない。「先生!」もう一度日本語で叫ぶと、扉の奥に半分消えかかった先生が首を出し、わたしたちに気づく。
冬でもいつも暑いんです、頭だけ汗かいて。
あなた、冷えてるね。
冷えてる?? ローランが目を丸くする。
陰陽、わかる? 暑い思ってるけど、中、冷えてる。
禅問答みたいな予期せぬ回答にシビれて、餌を待つ雛鳥みたいに口を開けたまま、こくんこくんうなづく。だから東洋医学って面白い。
ハイ、また電話するネ!
笑いながら、おじいさん先生は扉の奥に消えた。
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