文字の海に溺れて

 女としての甲斐性のなさは、思春期の時点ですでに顕著に表れていたに違いない。本人が自覚するまでもなく、何かを世話し育むに足りる献身的な精神、歓びと苛立ちが交互に押し寄せるだろう、その過程を根気強く律儀に遂行するだけの自律心、責任感が私には目に見えて欠落していたのだろう。〈ミオが子供を持ったら育児放棄するに違いない〉は、長らく我が家の常套的ジョークだった。

「”ねぇママ、お腹空いた…”と指を加える子どもの横で、ミオがベッドに寝そべりながら、”ママ今ね、詩を読んでるから。ちょっと待ってて…”」

 父が笑うと母も妹たちも一緒になって、きっとその子のオムツは何時間も換えられてないに違いないなどと、より詳細にそのシーンを描いて見せるのだった。揶揄われるたび、私はムッとするより、そんなもんかぁ…とポカンとしてしまう。いつかは自分も子供を産み、育てるのだろう―、何の疑いもなくそう信じてはいたが、子育てなんて死と同じくらい、当時の私には途方もない未来だった。

 この不名誉な評価はけれど、家族間に留まらなかった。わざわざ一家の語り草を披露するまでもなく、歴代のボーイフレンドたちは示し合わせたように〈僕が倒れてもあなたは絶対に介護なんてしてくれない〉そう口をそろえた。そうしてここでも必ず〈本〉が出てきた。

「僕がヒイヒイいって寝てる隣でね、”すばらしい文章を見つけた!” とかなんとかいって、頼んでもないのに朗読しはじめるあなたが目に浮かぶ…」

 どうやら私を知る人の中で、私の怠惰は本とセットになっているらしい。
 春の日本旅行で仕入れてきた本、パリBOOK OFF(少しだが日本語の本もある。ジュンク堂もあるが、こちらは”輸入本”になるので当然値が張る)で購入した本をベッドで、ソファでぐにゃり体をねじ曲げ読み耽る私は、家族に笑われたあの頃とちっとも変っていないのだろう。夢中になってページをめくり、時にはトイレに行くのさえ我慢して先へ先へと読み進めたいのに、同時に終わってほしくないと願う、あの矛盾と高揚に縁どられた読書の快楽。さらに日本語の本が貴重品となってしまった現在は、漢字にひら仮名、カタカナ、3種の文字が入り乱れる日本語のビジュアルとしての美しさ、表現技法におけるその柔軟性をあますことなく味わいたいという、母国語へのある種の飢えと賛美が加わり、時に文字通り〈舐める〉ように読んでいる。

「ミオ、そんなに飛ばして読んだら、またすぐ読む本なくなるよ」

 ローランに注意され、その通りだと思うのに一度読みだしたらやめられない。物語の中で私は知らぬ街の知らぬ通りを平然と歩き周り、現実には決してすれ違うことがない人々の暮らしをのぞき見、その人生の断片を追体験する。アパルトマンから一歩も出ずに、短くて熱い旅に出る。

 深夜、文字の海を漂ううち、20代の頃、しきりに自分に言い聞かせていたことばをふと思い出し、ページをめくる手が止まった。

〈私の人生の本編はまだまだ始まっていない。これはプロローグに過ぎないんだ…〉

 静まり返った8月、薄暗いパリ11区の部屋、青緑色のソファ、テーブルで絵を描くローラン…。とうとう私は〈本編〉にいる。恐らくはその後半あたりに。相変わらず本を片手に、ソファに寝ころんで。子供はいない。満ち足りた惰眠をめくれば、なけなしの焦燥感が今もかすかに火の粉を散らす。放棄してしまいたいほどの枷すら持たず、身を捧げるほどの情熱すらつかめず、また本を読んでいる。

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