業にいっては業に従え
久しぶりにHalle Saint Pierreへ行った。〈Art Brut(アール・ブリュット)=生の芸術〉、正規の美術教育を受けず、既存のアートという概念を離れ、自由に表現された作品群(日本ではアウトサイダー・アートの名でもおなじみ)を展示している、こちらの美術館。この日は複数の作家の作品が企画展示されていた。
で、館内をうろうろしていると…どこかで見かけたようなおばさまが。ふくよかなからだに大きな緋色のターバン(この日は私もターバン頭だったが)、するどい目つき。…あ、そうだ。Instagramで見たんだ。この手のアート作品の投稿、それもオープニングパーティーなんかの写真で幾度か見かけたような…。アーティスト当人というよりはディレクター風(もっというならボス顔)。この時も数人のお客を相手に作品の解説をしているようだった。横目で通り過ぎながら、なぜか〈業〉という文字がちらり浮かんだ。久しぶりに見たなぁ、こういう顔。
帰宅し、改めて〈業〉ということばの意味を調べてみた。いわく、前世の行いの悪さが災いし、運が悪かったりする人、または欲深い人を指すという。〈前世の悪行云々〉はさておき、〈運が悪い〉は、ちょっと意外だった。業の深い人って欲も深ければ悪運も強いイメージだったから。例を挙げると、一時期TVを席巻していた某有名占い師。私の中では〈業の深い〉見本みたいな顔だ。彼女のことは一度京都で見かけたことがある。川に面したガラス張りの店でちびちび飲んでいたときのこと。向かいの料亭から突如、周囲の調和を破るように毒々しいピンクスーツのおばさまが御付きを従え現れた(御付きの両手には抱えきれないほどの紙袋)。続いて女将らしき女性や板前さんらが現れ、みながずらり並んで深々と頭を下げる中、女性は黒塗りの車の中に消えていった。遠目からでもわかる厚化粧、書道パフォーマンスの作品を彷彿とさせるような威勢のいい急カーブの太眉、胸を張るというよりはむしろ威嚇しているようなその姿勢、歩き方。ふんだんに振りかけられた〈業〉という名の香水が川越しにうっすら漂ってくるような…。さすが、期待を裏切らなかった(笑)
あとは現在作家兼女僧の方の若かりし日のお顔もそうだし、『グレート・ギャツビー』の作家、フィッツジェラルドの妻ゼルダの写真なんかを見ても、やっぱり私は〈業〉ということばを思い浮かべてしまう。
話が逸れた。この手の顔は日本でもそうそう見かけるわけではないけれど、こちらに来てからは、いかにもはじめて。〈業〉はもともと仏教用語だから、同じことばはフランス語に見つからないはずで、じゃあこういう印象、なんて表現するんだろう。単純に〈欲深い〉だと、ちょっと片手落ちだ。まぁ、見ず知らずの他人の顔を業が深いなんて勝手に感じ入ってる私も相当に質が悪いけれど、この類の人って一様にエネルギッシュだ。欲をもって欲を制すじゃないけれど、名誉、金銭、性、あらゆる欲を一身に集め、具現化、もしくは破滅へのエネルギーに還元していく、そんな錬金術的パワーを兼ね備えている(ように見える)。そう、ドラッグの使用を問われた裁判で〈破滅するのは個人の自由〉と申し立てたのはかのF・サガンだったが、破滅するのだって、それなりのパワーが必要(とはいえ、自ら破滅する自由を訴えるほど執着の少なかっただろうサガンの顔には、まったくもって業を感じないのだけれど)。
そうしてなぜか、〈業〉ということばは、女にこそ似あう。野心や欲にまみれた男ならごろごろいるが、彼らの顔には〈業〉という凄味がない。単純明快に欲深いだけなのだ。なぜだろう。やっぱり女の方が自意識が強いから? それとも長く男性優位の社会にあって、女がストレートに力を求め、己の欲を貪欲に満たそうとすること、その試み自体が稀で、その過程には男性のそれに対するよりずっと大きな圧力がかかるせい…?
ああ、こうしてまた、どうでも良い考察に日曜の日が暮れていく…。40過ぎたら、自分の顔に責任を持てというじゃない。まずは自分の顔に集中せねば…!
いずれにせよ、人の想像力を過剰に刺激する顔というのが、世の中にはある。
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