道端の物語
19歳、はじめてのフランスで私は歴史ある町並みに圧倒され、同時に路上生活者の多さに驚いた。私の育った町にももちろん路上生活者はいたけれど、こんなにたくさんの〈道で暮らす人々〉を同時に目にしたのは生まれてはじめてだった。時は1990年代、日本がまだ好景気だったということもあるだろうし、あるいは東京などもっと大きな街の然るべき場所へ行けば、当時もたくさんの〈彼ら〉が存在したのだろう。そうだとしてもやっぱり解せなかったのが、若い路上生活者の多さだった。私とさほど年齢も変わらないだろう若者たちが日がな一日、道に座り込み投げ銭を請うている。老人ならともかく、若ければなんだってできるはず。いったい、なぜ…?
幼い頃から私は〈集団の端っこ〉、もしくは〈集団の外〉にいる人々が気になる質だった。フランスへ来てもやっぱり〈道に暮らす若者たち〉が気になって仕方ない。やがて毎日のように出くわす〈彼ら〉と次第に挨拶を交わすようになり、そのうちちょっと立ち話をするようになり…。感じがよく、決して危害を加えるような人物ではないと判断した幾人かを、最終的に私は自分のアパルトマンへ呼び寄せ、時にごはんを食べさせたり、シャワーを貸すようになった。一度など、そのうちのひとりが〈いつもお世話になっているから〉と、〈道端のディナー〉に招待してくれたことがある。その日は顔なじみの〈彼〉の他にアフリカ系の脚の悪い陽気な青年と、かつて建築家だったというムードある紳士(もちろんみな路上生活者)の3人に歓迎され、スパイスたっぷりのアフリカ料理をご馳走になった。簡易コンロの上の小さな鍋がぐつぐつと食欲をそそる音を立てていて、聞けばマルシェでもらった野菜くずだという。
今、当時を振り返ると、若い女の子がよくひとりであんなことやってたなぁ…と危なっかしく思うけれど、実際に交わってみることで〈なぜ…?〉の答えに、ほんの少し近づけたのも事実だ。たとえ、手に入れたのがすでに想定内の〈ヒント〉だったとしても。〈平凡なあたたかい〉家庭で育った人などいなかった。招待してくれた〈彼〉は父親からの家庭内暴力に耐えかね、10代で家を飛び出ていたし、アフリカ系青年の家庭は幼少期、すでに崩壊していたという。貧困、暴力、差別、病…TV画面の向こう、あるいは新聞の片隅で目にしていた主題と、その顛末をはじめて身近に感じ、心が痛んだ。それでも〈なぜ…?〉の答えは見つからなかった。どの程度の〈支援〉が望めるのかはわからないけれど、支援機関ならいくらでもあるはず。ねぇ、もう一度屋根の下で暮らせるよう、何らかのアクションを起こしてみようよ。いくらそう訴えても肯定的な返事が返ってくることはなく、私はいつしか彼らから遠ざかっていった。今ならよくわかる。いや、想像できる。尊重されることを知らず、あきらめることに慣れてしまった人にとって、より良い未来のために行動すること、あるいは〈より良い未来〉に自分が値すると信じるのがいかに難しいか…。
22年ののち、ふたたびフランスへ戻って来た私は同じ光景に戸惑う。メトロの駅で、にぎやかな表通りで―、いたるところで目にする〈彼ら〉。ただ、もう〈なぜ…?〉とは問わない。最初のうちこそ無力感にさいなまれ、彼らの前を通るたび、視線を落とし身を固くしていたが、ひとは慣れてしまう生きものだ。そうして慣れは感性を鈍化させてしまう…。毎日同じ場所で見かける〈道のおばさま〉とは〈こんにちは、お元気ですか〉とことばを交わすし、バイトをはじめてからは売れ残りを配って歩いたりもする(片道15分の通勤路に3人の路上生活者がいる)。でもこれは何の解決にもつながらない。いっとき彼らはお腹を満たし、私はささやかな自己満足で現実から目をそらすことができる。たったそれだけ。
もちろん心にとめるべきは路上生活者だけじゃない。〈社会の端っこ〉で見過ごされがちな人々、その存在と彼らの生きる現実に関心を持ち続けること…。理想主義者であるのと同じくらい、怠け者の私に今、できるのはそれくらいか…。いや、ホントかな。
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