黄色いベストに思うこと

 あっという間に12月も後半!どこにいても、師走は師走。この時期になると、まだ実家に暮らしていた頃の、とある12月のお昼ご飯の会話を思い出します。その日、お味噌汁をすすりながら、父がぽつりとつぶやいた。

「年取るごとに月日が過ぎるのがどんどん早くなるなぁ…」

「え、そんなもん?」

「うん。毎年ガンガン、ガンガン!早くなってくる…!」

 ホンマやわぁ(笑)本来ならクリスマスムード一色のはずのParis。今年は残念ながらデモに見舞われ、週末は美術館もメトロも閉鎖。住民はもとより気の毒なのは観光客。今週末はいったいどうなることやらと、TVをつければニュース番組は破壊行為の映像…。デモの参加人数は徐々に減ってはいるものの…。私自身は(自分の意見はあるものの)決して政治的人間ではないので、貧弱な知識、認識のまま、デモについて突っ込んだ言及はできないのですが、それでも週末ごとに繰り返される暴力行為をTVの向こうに眺めては、はじめてこの国に来た時、感じた違和感を思い出します。

〈私は君たちに自由の使い方を教えてきたつもりだが―〉

 映画「さよなら、子供たち」の中の神父様のことばです。この作品をはじめて見た時、私は13歳。思い返せばその2年前、11歳の夏、サガンの「悲しみよ、こんにちは」を読んでカルチャーショックを受けたのだ。この小説との出会いはいつかまた別に書くとして、人生のごく早い時期にこれらの作品に出会い心揺さぶられたことと、私が今フランスで暮らしているということにはやはり深いつながりがある、そう思わずにいられません。

 さて、話をもとに戻します。まず自分の目で見て、自分の頭で考えたい―。13歳、芽生えたばかりの自我と反抗心の発露を見出せぬまま、ひとりうずうずしていた当時の私にとって、〈自由の使い方を教える〉という神父様(教育者でもある)のことばは非常にセンセーショナルでした。ヘアスタイルはこうでなければいけない、スカートは長すぎても短すぎてもいけない…。表面的なことばかりに重きが置かれ、いかに自由、もしくは個性を統制するかで全体としての調和を図ろうとする学校教育(少なくとも当時の私にはそう見えた)に1ミリたりとも納得できていないところに、突然〈自由の使い方〉だもの。ああ、自由って〈ある〉か〈なき〉かだけが問題じゃないんだ! 手にした自由の〈分量〉よりも、まずは手元のそれをどう使うか、活かすかがもっともっと大切なんだ…。それはある種のショックに近かった。子供たちに向けて、そんな風に語れる教育者がいるということに私は深い感銘を受けたし、同時にそのような考え・在り方を育むフランスという国の文化について、13歳なりの敬意と憧れを感じずにはいられませんでした。

 本や映画や美術、フランスにまつわる魅力的なものに、その後いくつも出会い、やがてフランス行きを決めることになるのだけれど、中でももっとも深く私を魅了していたのは、やはり〈フランス的反骨精神〉、もしくは〈フランス的エスプリ〉のようなものだったと思います。憧れと期待と気負い、とはいえそう簡単に組みしてなるものか…という、一抹の気概すらトランクに詰め込み辿り着いたフランス、19歳。そのフランスで若かった私は件の神父様のことば〈自由の使い方〉、その重みを身をもって知ることとなりました。親元を離れ、はじめてのひとり暮らし。ちいさくて安全だったかごの中から、突然認知できないほど広い世界に飛び出した時の、その暴力的なまでの自由。良きことも悪しきことも、あらゆる可能性と誘惑がそこかしこに溢れていて(おまけに私はとても好奇心の強い娘だった…)、あんなに憧れていた自由を私ははじめて怖いと思いました。

 やはり教育制度の改正に反発する学生デモが多発していたあの頃、忘れ得ぬ夜があります。町ではデモ隊がショーウィンドウを割り、警察は催涙ガスで応戦。物騒な夜でした。いったいどうなるのだろう…と友人宅で過ごしていると、途中、学生デモに参加しているという女の子が訪ねてきて、俄かデモ論争が始まり…。鼻息荒く政府批判を繰り返す女の子をじっと見つめているうちに、なぜか私は妙に落ち着いてきて、自分でも意外なほどはっきりと認識したのです。〈ああ、自分はあっち側の人間じゃないんだなぁ…〉。必要とあらば声に出してNOという、たとえ相手が〈目上〉と呼ばれる立場の人であっても―。物心ついたときから、時には意地になってそう生きてきたつもりだったけど、今、目の前に広がっている光景に私は決して加担したいとは思わない。たとえ彼らの基本的な主張に共感できたとしても、その主張が暴力行為にまで及べば、単に自らの〈憂さ〉を器用に〈主張〉にすり替えているようにしか見えない。集団的〈熱狂〉はそもそもの意図を容易く超えて、安易なフラストレーションの発散になりかねないんだ…。

 NOというべき時には、やはり声に出してきちんと伝えるべき。私たちにはその〈自由〉と〈権利〉がある。あれから20数年が過ぎた今もそう思います。ひとりひとりが自分の意見を臆することなく述べられる環境、文化、それ自体はとても素晴らしいことだと思う。だからこそ、私たちは声を挙げられるこの〈自由〉をもっと賢く、丁寧に使わねばならないのでは…。それは何もある種の運動に限ったことではなくて、ごく個人的な人生における選択についても同じこと。〈自由〉が尊ばれる国だからこそ、神父様はその〈使い方〉を説いてみせたのだ…。ご多分に漏れず、とかく〈自由〉を要求しがちな私にとって、フランスは今も昔もその〈意味〉と〈使い方〉について、ふと立ち止まらせ、考えさせる場所であります。

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