バラの約束

「…楽しかったね」

花隈城横の柳並木から、ちいさな神社へと続くなだらかな坂道。

ふたつの道が交わり、わかれる地点で振り返って姉さんが言った。

きんと音を立てそうなくらい、冬の夜空が冷たく澄んで、姉さんの吐く息が白い。

楽しかった、その一言に一緒に過ごしたこの数年間、いとおしい時間のすべてがぎゅっと凝縮されていて、うん、と答えるそばから涙がこぼれる。泣きながら私は振り返った姉さんのこの時の顔、細い、静かな声を絶対に忘れないだろう、そう思った。

姉さんには最後まで渡仏を告げづらかった。年内にフランスへ渡ろうと本当はだいぶ前から決めていて、仕事でお世話になっている方々、友人などにも少しずつ報告してきたけれど、姉さんにだけは中々いい出せずにいた。いついおう、どんな風に…?悶々としているうちに、その頃私が暮らしていた界隈のごく近くに姉さんも越してくることとなり、一緒に下見にまで行った。

「なぁミオちゃん、もうちょっとここで暮らしてな」

その頃、私はもうローランと遠距離恋愛中だったし、姉さんにしてもいつか私が日本を離れるかもしれぬと承知していただろう。それでも公園横の可愛らしい「新居」を見学した後、ビールを飲みながら嬉しそうにいう姉さんを見ると、やっぱりいい出せない。”うん…”、後ろめたい気持ちで言葉をにごし、私はビールを一息に飲んだ。

年上の彼女を関西風に「姉さん」と呼びつつ、私はどこかで自分がいなくなったら、姉さんはどう過ごしていくんだろう…、そう案じていた。弱い人ではない。依存する人でもない。私のほかに友人も家族もいる。随分と仲良くさせてもらったけれど、ふたりの間にはいつもちいさな小川がさらさらと流れているような、超えてもいいけど、超えずにおこう、そう思わせるような人だ。なのになぜだろう…、こんな風に親しくなった以上、姉さんに対する何かしらの責任が自分にはあるような気がして、だから心苦しいのだ。ふと「星の王子様」のキツネの話を思い出した。

”仲良くなるには辛抱が大事だよ。最初は少し離れて座るんだ。俺はあんたをちょいちょい横目で眺める。あんたは何もいわない。一日一日と経ってゆくうちに、あんたはだんだんと近いところに座れるようになる…”

”あんたがあのバラの花を特別に思ってるのはね、あんたがあの花のために時間を無駄にしたからさ。面倒見た相手には責任があるんだ。守らなきゃならないんだよ、あのバラとした約束を…”

ふたりの間に流れる小川は私のものではなく、姉さんのものだった。化粧っ気のない白い顔、小柄なからだにシンプルなお洒落。ヨガを教える姉さんは自然体、ナチュラルという言葉がよく似合う、どこか植物的なひとだ。それでも一たび口に含むと、じゅっと広がる水分のあとに、きしきしと容易には噛みしだけない繊維が残る。

「不器用やねん」

誰かを好きになればすぐに開けっぴろげになってしまう私と違い、慎重な姉さんと少しずつ時間をかけて親しくなった。キツネのごとく。そのうち小川を挟んで向かい合って座るようになり、たくさん話して、たくさん飲んで、美味しいことも、ほろ苦いことも一緒に食べた。ふたりで飲み屋を梯子すると、「あんたら、ええコンビやなぁ」よく、そう声をかけられた。目を見合わせて笑った。そういわれることがうれしかった。思春期の女の子の友情みたいに。それでも面倒を見合うほどには近寄り過ぎず、小川の境界線を大切に守った。

無駄にした時間が誰かを特別なバラに変えるのなら、その無駄もまた何にも代えがたい特別な無駄なんだ。だから、さようならがいえなかった。面と向かって別れを告げる勇気すらなく、結局、出発まで残すところ数か月となったところで、メールを書いた。姉さんは笑って私を送り出してくれた。

さようなら、ありがとう、またね。

パリで迎えた新年、姉さんから手紙が届いた。あたたかくてきれいな言葉がいっぱい詰まった、美しい手紙だった。

”そうしてまた、グラスを傾けながら、ああでもない、こうでもないと語り合い、笑い合おうね”

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