出会った頃のこと…

思わぬ出会いから1年半。

とうとう夫婦になったローランと、出会った直後に書いた文章を

プロローグ代わりに載せておこうと思います。

ちょうどこの頃から参加させてもらっている、メイルマガジンに寄稿した文章です。

読み返すと、この頃はまだローランもわたしも予想だにしなかった出会いと、

そこから生まれた互いの感情に戸惑っていて、「先」なんて想像のしようがなかった。

それが今、ずっとこうして暮らしてきたんじゃ…?と錯覚するほど、

なんの気負いもなく、ふたり毎日楽しく暮らしているなんて、人生とは不思議なものです。


春の呼び声 

春。むずむず、うずうず、そわそわ。やんわり生暖かい、エロティックないのちの季節。緑が芽吹き、桜はほころび、卵が孵る…。

 十数年前、思わぬところから初めての本が出た。不妊治療の専門医が本を作るから導入部の絵本を書いて、という依頼。その頃私は結婚を間近に控えていて、その内子供だってできるだろうし、時期としては完璧だったのかもしれなかった。しれなかったと過去形で綴るのは原稿が仕上がるのと同じ頃、あんなに燃え上がった恋を捨て、泣きながら新居を飛び出したからだ。

 絵本のタイトルは「いのちがうまれるとき」。制作時には隣に未来の夫がいた。その頃すでにざわついていた胸の内をごまかすように、私は幾度も彼に作品への意見を求めた。懸命に応える彼。やがて私が下すだろう決断から少しでも目を逸らそうと、私たちは私たち以外のことにかまけた。ふたりともじっと息を殺して最後の時間を生きていた。手放してしまうにはあまりに名残惜しくて美しく、けれどもう取り返しのつかない恋の終わりの時間を。

 初めての本の中で私は笑っている。大きな恋をひとつ終え、久々に訪れたギリシアで写された写真の私はきらめく陽光を全身に浴び、きっとまた恋をする、そう信じている。その後中々本物の恋に巡り合えないまま、悶々と長い時間を過ごすことになるなんて露とも知らずに。ましてや「いのち」に関わる本を書きながら、それを宿すことも育むこともないまま、もうすぐ受胎の季節を終えようとしているなんて知る由もなく。

 子供が欲しいかと聞かれれば、本当のところはわからない。自堕落に生きてきた私に今さらそんな度量があるのかわからない。ただ時折、田辺聖子さんの文章をふと思い出す。「女の手は可愛がるものを探している」。犬でもいい、猫でもいい、お人形でもいい。でも本当は春の宵、人肌の温もりに顔を埋め、いのちの匂いに安堵して永遠に惰眠を貪りたい。そう思いながら、小さな人形を胸に抱いて眠る。秋、旅先の異国で久しぶりに落ちた恋。僕の代わりに、と海を越え届けられた人形を寝床の中でそっとつねってみる。窓の外では長い冬から目覚めたいのちが、ざわざわ、ざわざわ、さんざめいている。

 冬の終わり、鍼灸師の親友が私の耳に触れ、つぶやいた。「あら…、耳でわかるのよ。子宮がふかふかしてる。まだ充分に妊娠できるわよ。」

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