結婚指輪
みなさん、いかがお過ごしでしょう…??
こちらは短い猛暑を通り越して、ここしばらく秋かと思うほど涼しい。
いまだ袖を通していない夏服がいっぱいあります。
白いプレーンなワンピース、黒字に大胆な花柄のヴィンテージ・ワンピース…
ぜんぶ来年なのかしら…??
前回に引き続き、メイルマガジンに寄稿した「結婚指輪」を載せておきます。
「結婚指輪」
ジジッ、ジジジ…
薬指の上で電動針が踊っています。
猫にひっかかれるのと同じだよ、彫師のお兄さんはそう微笑みましたが、いえいえいえ。
猫のそれがヒリヒリなら、こちらはジンジンとでもいいましょうか。
それでも思ったよりずっと痛くありません。なのに、じっとりとからだが熱い。
指の上を這うバイブレーション、電動針の機械音に私はすっかり怖気づいています。
ー大丈夫、すぐに終わるよ。
ローランが私の右手を握っています。
そもそも結婚指輪をタトゥーにしようと言いだしたのはこの私です。
後悔なんかしてません。こんなの痛いうちに入らない…、とはいえ怖い。
見たらきっと、もっと怖い。
薬指から顔を背けたまま、5分ほど経過したでしょうか。
―終わったよ
機械音が鳴りやんで、火照った指にひんやり、消毒コットンが触れました。
あぁ―、緊張が一気にほどけます。
―お待たせしました
お兄さんが仰々しくコットンを外すと…
―わぁ…!
うっすら血の滲んだ黒いアルファベット、指の上で優雅にくつろぐ「L」の字。
ふたたび、胸が高鳴ります。
××××××××××××××××××
はじめて会った日、袖口からのぞいていたカフカのサイン。
それまでタトゥーに興味なんてなかったけれど、文学者の署名なんてちょっと素敵だ―、
そう思ったときにはもう、彼に惹かれ始めていたのかもしれません。
どれも黒一色とはいえ、ローランの上半身はらくがき張のごとく賑やかです。
左肩には大きな黒い樹のシルエット(私はこれが一番好きです)、
右肩にクリムトの「水蛇」。さらに右胸には黒髪と白い髪、ふたりの女性。
三十を過ぎてから節目ごとに入れたというタトゥーは、さながら象形文字の年譜です。
その年譜に今日、私の名が加わりました。
××××××××××××××××××
真上から横から斜めから。
自分の指とローランのそれを代わる代わる眺めます。
外すことも消すこともできぬ誓い、紛れもなく人生でいちばん大きな約束ごと。
―さぁ、おふたりさん。誓いのキスをどうぞ!
お兄さんに促され、唇をかさねます。
―おめでとう、お幸せに!
飴色の光に包まれた夕暮れのタトゥー・サロンに拍手が響きます。
―自分にぴったりの場所に、とうとうたどり着いたのよ。
かすかに疼く薬指が、そう私にささやきました。
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