をんなが付属品を棄てると…

土曜の静かな夜半

暗い中庭を眺めながら、台所の窓辺で煙草を吸っていると

なんとなく『レモン哀歌』が頭をよぎった

13歳の頃、大好きだった詩集「智恵子抄」の中の詩のひとつだ


 そんなにもあなたはレモンを待っていた

 哀しく白く明るい死の床で

 わたしの手から取ったひとつのレモンを

 あなたのきれいな歯ががりりと噛んだ


途中少しばかり躓きはしたが、案外さらさらと最後まで思い出されて

我ながらちょっと感心してしまった

あれから33年!

好きなものって覚えているもんだなぁ。

「智恵子抄」の中には他にもいくつも好きな詩があったけれど、

後日、背景を知って感慨深かったのが「あなたはだんだんきれいになる」だ

『をんなが付属品を棄てると、どうしてこんなにきれいになるのか』で始まるこの詩を、

当時のわたしは時系列もあまり考えずに、

病に伏した智恵子を詠ったものだろうと思っていた

精神の病を患い、幼児のように無邪気になっていく妻を見守りながら、

葛藤のすえ〈あなたはだんだんきれいになる〉

そう見つめられるところまで辿り着いた作者と

その新鮮な目であらためて発見する妻のまっさらなうつくしさ、

ふたりの関係のひとつの到達点を詠ったのだろう、と。


わたしの中の智恵子抄ブームが過ぎ去ってから数年後、

NHKで智恵子抄がドラマ化された

病に伏す前の智恵子は夫と同じく表現を志していて、

先に芸術家として名を成していた夫に少なからず鬱屈や嫉妬も感じていただろうし、

強い自我を持つ芸術家同士の、

ちょっとピューリタン的ともいえなくもない閉塞的な暮らしが、

彼女を次第に疲弊させていったんだろうな…

子どもなりにそんな背景をちらり垣間見て、ちょっと驚いたのを覚えている

智恵子と光太郎の、

あるいは智恵子の側の精神的闘争を想像しながら

「あなたはだんだんきれいになる」を読み返すと、

智恵子が棄てた〈付属品〉の内訳も俄然違って見えるし、

光太郎の純愛も、ある種の贖罪に見えなくもない…

まるで聖夫婦みたいに眺めていたふたりの関係性が

ぐっと人間臭く感じられた(子供なりの精いっぱいの想像力で!)

いずれにしても読む方があれこれ勝手に思い描いてみるだけで、

光太郎が智恵子が、ほんとうはどんな思いで暮らしていたのかなんて、

知る由もないのだけれど。


あれからさらに数十年を経て、今この詩を読み返すと、

我が身に置き換え、まったく違う感想がよぎる

〈わたしはだんだんきれいになる〉どころか、

ますます付属品をため込んでいるのじゃないかしら!?

目に見えるものならば断捨離のしようもあるけれど、

目に見えない付属品をいったいどうやって処分しようか、

だけど、いちばん怖いのは自ら認識できていない付属品よね…

などと思うあたり、

〈見えも外聞もてんで歯のたたない 中身ばかりの清冽な生きもの〉

には死ぬほど遠い…




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