故郷を遠く離れて
ユセフに出会ったのはフェズの宿屋の朝食の席だった。「君たちはどこから来たの」天窓から零れ落ちる光を浴びて、ユセフが訊ねる。赤茶けた髪にはわずかに白髪が混じっているが、やわらかな微笑みはどこか疲れた青年みたいに見える。
「フランスだよ、君は?」
「パレスチナ」
一瞬、ことばを失う。…大変な状況だね、ローランがいい、ユセフは笑顔のまま視線を逸らす。「難しい話は抜きにしたいんだ。特に朝は」
わたしたちはミントティ―、セモリナ粉のクレープとパンケーキ、蜂蜜の朝食をとる。自己紹介の流れで君の絵が見たいと促され、わたしは先の個展で好評だった異星人のシリーズを何枚か見せる。
「…ねぇ、これは異星人を描いてるの?それとも君自身?」途端にユセフとわたしの間にある親密さが生まれる。故国から遠く離れた場所で、思いがけず同胞に巡り合ったような気分になる。
わたしたちは旅について、互いの生活について話す。「僕は人間嫌い」とローランが笑えば、「君は母国を離れて暮らしたことがないでしょう?」すかさずユセフが応答する。
「だけど、君のいいたいこともわかるよ。幼い頃から兵士や暴力を目の当たりにして、永いこと外国人として暮らしてきて…僕もずっと人が怖かったから」
パレスチナで大学を卒業したユセフはサウジアラビアで一年を過ごしたのち、マレーシアの大学に入り直し、そこからさらにドイツの大学へ編入したという。「僕らがビザを取得するのはとても難しいから」途中、ユセフは何度もそう付け加えた。学業を終え、そのままボンの街で看護師の職に就き、二十年以上が経つ。
ローランが席を外すと、ユセフは「すべてを信じるわけではないけど」と前置きをして、自分はあるスピリチュアル・メンターをフォローしているのだ、と告げる。「宇宙エネルギーでヒーリングを施し、異星人からのメッセージを伝える人なんだ…」
ユセフとは二度、一緒に街を歩いた。一度目はスペイン人のクリスティナも加わり、四人でメディナを散策した。恋人に会いに幾度目かのフェスを訪れていたクリスティナは、仕事さえ見つかればすぐにでも移住するという。「うちの親って差別主義者なの」てっきりモロッコ人との交際を反対されたのだろうと早合点したわたしは、彼女の次のことばに少なからず驚く。「わたしが黙ってイスラム教に改宗したこと、両親は許してないのよ」
夜十時、ようやくフェズの街に日が暮れる。広場に明かりが灯る。皆が涼みにやって来る。歓声を挙げ、子供たちが走り回る。その傍らではケープを纏った母親たちがお喋りに明け暮れる。向かいのカフェで、男たちはゆっくりと煙草をくゆらす。アイスクリーム売りに太鼓とタンバリンの楽団、頭上にはコウノトリの大きな巣、そうして三日月。「ねぇ、ここには人生がある。そう思わない?」天国に辿り着いた人のように、ユセフがうっとりという。「…ドイツなんて、空っぽだよ」帰りたくない、その目が静かに訴えていた。
なぜ、ユセフは宇宙人の教えを説くメンターに惹かれたのだろう。最後まで訊ねることは憚られた。見上げると、深い藍色をしたフェズの夜空に幾千もの星が粉砂糖のように白く瞬いている。もし、世界の痛みが折り重なる場所に生まれ落ちたら…。争いの構造に深く絡むその宗教に、ひとはいつまで救いを求められるのだろう。母国を遠く離れ、帰ることも、恐らく根付くこともできず生きるユセフにとって、異星人ほど身近に感じられる同胞はいないのかもしれない。
別れの日、ユセフは休暇を一週間延長した、と微笑んだ。
0コメント